◉2021年:46歳
結局、Amazonの配送をしようと思っていたが、12月は一度も入らず、年が明けて1月に入ろうと思った時には、もう仕事が少なく現場に入れなくなっていた。
兵站仕事はもうしたくないと思っていたし、縁がなかったんだな、と思うことにした。
しかし、困った。これからどうしよう。なんて思っていた頃に、ハイエースを車中泊仕様に改造して全国巡りをするという若夫婦YouTuberの動画を目にする。
『なんか楽しそうだなぁ』
しかし、1ヶ月後、まさか自分が同じ様な旅に向けて、準備を始めるとは思わなかった。
きっかけは、お笑いコンビ、キングコングの西野氏や、中田敦彦氏などのYouTubeをたまたま観ていて、クラウドファンディングやオンラインサロンの存在を知ったから。
もしかしたら、旅を続けながら生活できるかもしれない。
なんの確証もなかったが、旅に出ることを決意する。
しかし、クラファンに申請するも、いろいろと面倒なことを言われて断念。代わりに、無料のネットショップを使って、スポンサー募集をやったら、一口1万円のスポンサーが15人ほどついた。ほぼ、Facebookで繋がっている元々の知り合いだったが、中には、Twitterで繋がった見ず知らずの人もいた。
まあ、15万円だけでは、到底旅を続けていくには足らないのだが、出してもらった以上、やはり旅は止めますとも言えない。結局、借りていた部屋も解約し、家財はジモティやメルカリで売却、または無料で譲渡し、3月に出発した。
16歳(1991年)の誕生日に買ってもらった長年の相棒のマウンテンバイク も泣く泣く手放すことに..。
奇しくも、出発したのは、3月11日だった。本当は、数日早く出発するはずだったのだが、なんだかんだで準備が遅れ、この日になった。
一応、軽バン車中泊、日本一周の旅と銘打っていたものの、そもそもの旅の目的は移住先探し。見つかって定住に向けた環境が整えられたら、旅は終了するつもりだった。
資金が途切れた時にどうするかまでは考えていなかった。まあ、なんとかなるだろう精神で、とりあえず出発。
計画では、都会には寄らず、ひたすら下道を通って田舎を巡る旅。
千葉→神奈川→静岡→愛知→三重→岐阜→長野→埼玉→群馬→栃木→茨城→福島→宮城→岩手→青森→北海道→秋田→山形→新潟→石川→富山→福井→京都→兵庫→鳥取→岡山→島根→広島→山口→福岡→大分→愛媛→高知→徳島→香川→(愛媛→大分)佐賀→長崎→熊本→宮崎→鹿児島→沖縄と、まあ、全県ではないのだが、移住したい土地が見つかるまで、一県一週間のペースで回るつもりでいた。
軽バンは、時間もお金もなかったので、とりあえず、後部座席を倒し、荷物スペースをフラットにして、布団マット、寝袋は薄手のと厚手のものを一つずつ、タオルケットと毛布を一枚ずつ、あとは洗面グッズとか、衣類とか、本とか積んで出発。
3.11直後に買った非常用(キャンプ用)のバーナーもあったが、ガスボンベをどこで買うのか、空になったらどこに捨てるのかを考えたら、面倒くさそうだったので、火器類は持って行かないことにした。調理もできないので包丁も持っていかず。
とりあえず、千葉の房総半島の友達が出発を祝ってくれると言うので、房総半島に向かう。2人とも酒豪で、店でさんざん飲んだ後、駅前の駐車場に停めておいた軽バンに3人で行き、さらにウィスキーを飲んだ。
わりと最近のことだし、細かく書くと、膨大な文章になってしまうので、軽バン車中泊の旅は、別の記事にする。
旅中につけていたスポンサーさん向けのメモはこちら↓
ちなみに、一番の目的は、移住先探しだったのだが、やはり巡っていると神社が気になってしまい、気がつくと、神社巡りがメインみたいな旅になっていた(笑)
アナスタシア 響き渡るシベリア杉 という本は、僕にとって理想的な自給自足生活の様子がありありと描かれているので良かったのだが、一つ難点があって、それは、ロシアを舞台にしたストーリーだということ。
だから、大まかなストーリーとかアイディアという意味では参考になったのだが、日本にいる身としては、どうもリアリティが薄い様に感じていた。
きっと日本のどこかに、日本での生活をベースとした、日本版アナスタシアみたいなストーリーを語る人がいるに違いない。いずれ、そういう情報に巡り合うようにと、オーダーした。
関東から中部、甲信越と巡り、一旦、埼玉の実家に寄って、衣類を載せ替えて再出発。そして、先祖所縁の栃木県に来た時だった。
元々、移住先の大本命は栃木県だった。何せ、父方の先祖も母方の先祖もいたのだから、ストーリーとしてスムーズで美しいではないか(笑)なにせ、探していたのは、一族の土地、だからね。
で、栃木県入りしたのですが、わりと雨天が続いたのもあり、外を歩くことも少なかったので、人と会って話すことがなく、一県一週間のペースで来たが、気付くと10日間が過ぎていた。
潤沢な予算があるわけではない。早く、何とかしないと、と、焦燥感が募る。
そんな時、たまたま見ていたTwitterで、運命的な出会いがあった。
僕は、2020年10月から肉魚卵乳製品を食べない菜食生活を送っていたのだが、その時、料理の参考にしようと、SNSアカウントをいくつか作り、ベジタリアン料理やヴィーガン料理と呼ばれるものを作り、食している人達のアカウントをフォローしていた。
Twitterも最初の頃は、ベジタリアンやヴィーガン、もしくは、アナスタシア本を読んでる人(アナスタシア本には、動物は人間の友達であり食べ物ではない、と書かれているので熱心なアナスタシアファンは恐らくヴィーガン)を中心にフォローしていた。
で、何人かのアナスタシア読者をフォローしていたのだが、ある読者さんが、いいね!だか、リツイートしていたツイートが目に止まった。
殆どやり取りのない女性だったが、大変にご立腹なツイートをしていらっしゃる。この人は、何をそんなに怒っているのだろうと思って、ツイートを確認すると、彼女が好きな超次元ライブとやらを誰かにバカにされたのに腹を立てていたようだった。
超次元って単語からして、何やら怪しいが、すごい剣幕?で怒りのツイートをされていたので、気になって動画を観てみた。
すると、胡散臭い感じのおっさん(失礼)が出てきて、妙なテンションで何やら語っている。普段なら、五秒見てピンとこなかったら、その動画は飛ばすのだが、何故か、この時は見続けた。
波動エネルギーの話をしている。僕は、普段やってる神社巡りもエネルギーワークだと思っているので、興味を持った。結局一話全て見た。
話の内容全てが腑に落ちた。面白い。他の動画も気になる。
陰陽師の回があった。目から鱗だった。結局、その後、第一話から最新回まで、全て一気に見た。
▼超次元ライブ23【陰陽師:おんみょうじ】
https://youtu.be/BfMoSzY_9Hc
そして、それまで、どちらかというと神さまや天皇家に対して抱いていた親近感が、一気に吹き飛んだ(笑)
そうだよ、俺が求めていたのは、これだよ、これ。
動画を全て見終わる頃には、本が出版されていることも知り、大してお金も無かったが、Amazonで全ての本を購入した。
新・日本列島から日本人が消える日(上・下)、縄文を創った男たち(上・下)、そして、身体をもって次の次元へ行く(1・2)の全6巻、一週間以内に全て購入し、全て読み終えた。
読みながら、新しい考えが浮かんでいた。
そうだ、これからのキーワードは、縄文だ。
縄文が色濃く残る土地、すなわち、沖縄とアイヌのいる北海道へ行きたい。今すぐ、行きたい。
そう思い、居ても立っても居られなくなり、一路、北海道へと走り出した。もう一県一週間計画もどうでも良くなったので、寄るつもりだった茨城、福島、宮城をスルーして、栃木県からノンストップで、岩手県内の道の駅へ。翌日には青森へ入った。
しかし、ここで問題が発生。北海道へ渡るフェリー代がない。それどころか、ガソリンも残り少なくなっていたし、所持金も残りわずか。
そして、数日、青森の道の駅に滞在しながら、奇跡を待った。そして、親友がお金を出してくれることになった。有難い話だった。
入金を確認して、すぐさま給油。そして、青森県内の大間へ行き、フェリーのチケットを買った。自分の車でフェリーに乗り込むのは生まれて初めて。しかも、北海道へ行くとあって、めちゃくちゃ興奮していた。
そして、6月11日に函館港から北海道へ上陸。
さて、どうするか。北海道へ来た目的は縄文を知る手がかりを得ることである。そうだ、アイヌの人々に会いに行こう。
どこにいるのかはよく分からないが、とりあえずせっかく北海道に来たのだからと、北海道を一周しながら、アイヌの人に出会えそうな土地を巡ることにした。
もちろん、土地勘があるわけでなし、お金もないので、観光地巡りをしてる余裕もなく、神社巡りだけした。
順路は、北海道の南側から左回り(反時計回り)。なぜ、反時計回りかというと、陰陽道で、渦は左回りが上向のエネルギーだから。
どこの道の駅だったか忘れたが、地元のおじさんが声をかけてきた。日本一周してますというステッカーを貼ってたから、興味を持たれたのだろう。
その人に、アイヌの文化に興味があることを伝えると、それなら、阿寒湖に行くべきだと言われ、阿寒湖を目指す。
北海道内で、アイヌといえば、有名な所が三カ所ある。
一つは、ウポポイのある白老。もう一つは阿寒湖。そして、富良野の南にある二風谷。
結局、紹介された阿寒湖に行って、アイヌ料理を食べた(美味しかった)が、アイヌの人とはあまり交流出来なかった。
そもそも、アイヌの人々は長い間、虐げられてきたので、自らアイヌの名乗る人も少ない。
アイヌの話に入ると話が長くなりそうなので、別の機会にする。
結局、阿寒湖によって、その後、北海道上陸してから約3週間かけて一周した。
元々の旅程では、1ヶ月間の滞在のつもりでいたが、広大な北海道の土地を目にして、ここなら一族の土地にする1ヘクタール(≒3,000坪)の土地が手に入りそうだと思い、住み込みのアルバイトをしながら、長めの滞在をすることにした。
北海道を回りながら、地元の人に北海道の冬の様子を聞いた。過去に仕事で一度だけ北海道に来たことがあったが、季節は夏の過ごし易い時期。噂に聞く過酷で長い冬は経験したことがない。
地元の人によると、北海道と一口に言っても、関東甲信越、中部までがすっぽりと入ってしまう広大な土地である。北か南か、はたまた、東か西かで大きく異なる。
聞いた話では、ざっくり言うと(当たり前だが)北部へ行くほど雪深く寒い。東西ではどうかというと、比較的人口の多い南部だと、西は雪が多いが東部より暖かい。東部は、西部に比べて雪は少ないが、地元の言葉で”凍れる”ほど寒く、真冬は氷点下20℃を下回る日も珍しくない。
一方、土地の値段はというと、札幌や小樽を擁する西部や、旭川、富良野を擁する中部に比べて、東部は(釧路、帯広はあるが)安い。
釧路湿原の辺りは、広大な土地がただみたいな値段で売りに出していることもあるとか(後々、知ったことだが、西部の札幌市に近いエリアでも、一山の値段が中古車一台分(100万円以下?)で売っていたりする。)。
しかし、北海道一周している時に入手した情報によると、全体的に東部が安い印象だった。
それならば、と、住み込みバイトも東部で探した。職種は農業と決めていた。
農業系住み込みバイトの求人を探していると、北海道の北東部に一件、求人を見つけた。早速、派遣会社に電話してみるのだが、こちらの希望に反して、富良野の農場をやたらと勧めてくる。
聞けば、働いていた人が急に辞めてしまったので、急ぎ人を探しているとのことだった。
『とにかく、社員寮がめちゃくちゃ綺麗なので、おすすめですよ」と、やたらと富良野を推してくる。
できれば東部でと思っていたが、よくよく考えてみると、富良野は北海道のヘソと呼ばれ、ちょうど中心辺りに位置している。旭川なら車で1時間半、札幌にも2時間半くらいで行けるし、阿寒湖へも4時間くらいの距離だった。
『まあ、まずは北海道の全体像を見ることが先決か』と考え、結局、派遣会社に勧められるままに富良野の農場にした。
当たりだった。
派遣会社の担当者が言った様に、社員寮は、新しくて綺麗だった。
また、この農場は、親会社である東京の土建会社の社長の気まぐれ?で始めた農場で、富良野のメロン農家の土地と権利を買い取ってやっていたので、一般的な農家に比べて、厳しいノルマがあるわけでもなく、仕事環境も色々と融通が効いて、やりやすかった。
また、現場を任されていた若者が優秀で、僕は彼について作業していたのだが、責任感が強く、農薬散布などの面倒な作業も率先してやってくれたので、作業内容もわりと楽だった。
この農場では、生まれて初めて、小型&大型のトラクターや、鎮圧ローラーなどの重機、フォークリフトの運転などもした。
結局、農業といっても、資本主義下においては、生産した農産物を然るべき順序で収穫して、発送するという兵站である。とくれば、得意分野である(笑)
若い社員の男の子に、栽培に関わる管理は全て任せて、物流部門を僕が担当させてもらった。僕らの他に、この農場の元オーナー、ベトナム人の女の子が2人いたが、メロンの収穫時期以外は、和やかな雰囲気で仕事が出来た。
この年、北海道に猛暑が襲った。何せ避暑地ということで、東京五輪のマラソンコースにも選ばれたのに、全国一暑い日もあったくらいの猛暑。北海道の家は冬はTシャツでも過ごせるくらい機密性が高くて暖かいのだが、その代わり、涼しい夏は、猛暑なんぞ想定さておらずクーラーがない。何日か寝苦しい夜もあった。
日中ビニールハウスで長時間作業をしていると、熱射病でぶっ倒れそうになるので、7月は、始業時間を1時間早めて、朝5時から。
前年は、朝から晩まで作業していたという話を聞いていたが、社員の子も僕も、だらだら時給を稼ぐような仕事の仕方が大嫌いな性格だったので、昼過ぎくらいにはその日の作業を終わらせる様にした。
収穫のピークを過ぎた後は、早ければ11時には作業が終わったので、サウナ好きな社員の子と、近場のサウナへ行ったり、大自然を見ながらBBQをした。最高の時間だったな(笑)
さらに暇な時には、一人で、日帰りで旭川や美瑛へ行き、神社を巡った。充実した毎日だった。
結局、7/1から働き始めて、10月の半ばまで富良野のいた。途中、Twitterで知り合った何人かと札幌であったりもした。
この農場はキングルビーという高級メロンが主力作物で、その他に、ホワイトコーン、麦、じゃがいもを栽培していたのだが、猛暑の影響で、麦は豊作、じゃがいもは凶作だった。
作業も捗っていたので、長時間働くことが出来ず、ベトナムの子達は、9月に入って早々に、別の農場に移っていった。
社員の子も、この農場に長居するつもりはなかったみたいで、いつの間にやら近隣の地域おこし協力隊に応募して次の職場を決めていた。最後は僕だけが残されて、後片付けをした(一人で全部やれずにやり残しがあったが)。
僕も次の予定を立てねばならなかったが、10月になって急に気温が下がった。冬の到来を感じた。富良野の残って仕事といっても、スキーリゾートか、配達の仕事しかなかった。まだまだコロナ茶番禍の真っ只中だった。
この農場で働く時には、簡易キットで検査をさせられたのだが、また検査受けさせられたり、マスクを強要される所で仕事はしたくなかった。
ということで、縄文の色濃く残るもう一つの聖地、沖縄に1ヶ月行くことにした。
年末は11月半ばから、この農場の関連会社で、北海道の海産物などを扱う卸の会社で働かないか?と誘われたので、いずれ北海道にも戻れることになっていた。
10月半ばに荷物をまとめて、一路沖縄へ。地元の人に小樽から新日本海フェリーというのが出ていて、料金も安いと聞いていたので利用することに。
そして、小樽から京都府の舞鶴港までフェリーで移動し、そこから、鳥取、島根、山口と山陰を通り、福岡、熊本経由で、数年ぶりに鹿児島へ。
数年ぶりの鹿児島⛰️
当初は、沖縄にフェリーで渡り、道の駅で車中泊をしようと思っていたのだが、人生初の沖縄で、10月とはいえ暑いかもしれない(車中泊をする上で暑さは大敵)。
また、フェリー代も往復で15万円くらいするということで、車を鹿児島空港近くの安い駐車場(300円/日)に停め、飛行機で沖縄入りした。
沖縄空気に着いて、空港を歩いていただけで、エネルギーの軽さを感じた。昔、祐気取りで、ハワイへ何度か貧乏旅行したことがあるのだが、ハワイで感じた軽さと似ているな、と思った。南国特有の匂いみたいなものが、気分をウキウキした気分にしてくれた。
どんな出会い、経験をするのか分からなかったが、とにかくワクワクしていた。
これまで沖縄といえば、戦前、戦中、戦後と悲惨な歴史を歩んだ、どこか日本であって日本でない様な土地という印象で、特別来たいと思っていなかったのだが、ミAアの本で、日本雛形論における日本の雛形にあたるのが沖縄と書いてあったので、とにかくテンションだだ上がりだった。
で、早速、那覇空港でレンタカーを借りて、ホテルに泊まった。夏休みのハイシーズンを外れていたからか、ホテルはわりと安かった。ホテルというより、マンスリーマンションみたいな家具家電付きの部屋だった。
調理器具こそなかったが、車中泊の旅では、洗濯代が意外とかかることを知っていたので、洗濯機付きなのが嬉しかった。
翌日、早速、沖縄を一周することに。沖縄の人に言わせれば、那覇から北部の山原地域は遠いということだったが、こちとら、北海道に住んでましたので(笑)片道3時間なんて、屁のかっぱ。一日で回ってやろうと意気込んだ。
しかし、那覇を出発し、いつも通り左回り(反時計回り)でドライブを始まると、すぐにあることに気付く。沖縄南部の土地は重い。ひめゆりの塔だの、平和記念公園だの、重たい場所があちこちにある。
ここを飛ばして先には行けないぞ、と。南部でもここは、という場所を丁寧に、というかしらみつぶしに回った。僕が回ったことで、幾らかでも軽くなったのかは、正直分からない。しかし、回らずにはいられなかった。
結局、那覇にいた時は、琉球八社だとか、目についた所をくまなく回った。琉球八社を回っていた時には、ヘリコプターが追っかけてきて、頭上で幾度となくホバリングしてたから、まあ目の付け所は良かったのだろう。
余談だけど、エネルギー次元的解釈をすると、5次元にフォーカスしてる僕の姿は、3次元の重たい波動にフォーカスしている彼らからは見えないはず。にも関わらずヘリが飛んできたのは、おそらく土地のエネルギーが変わったことだけは、感知できるからではないかと、思っている。
でまあ、せっかく沖縄に来て、好きでもない神社や寺、戦争記念碑ばかり回わる日々などもったいない。暇を見つけてはビーチへ行ったり、夜は大好きな栄町で、オリオンビールや泡盛を呑みつつ、もずくやアーサーの天ぷら、ニンジンシリシリなんかを美味しくいただきました。
北海道(富良野)でも感じたことなんだけど、沖縄も、深酒しても、翌朝の目覚めがすこぶるいい。土地のエネルギーが軽いからじゃないかと思っている。
沖縄では、地元の人との交流もあった。那覇市のとあるお店のカウンターで飲んでたら、お隣に座っていた男性に声をかけられ、沖縄のこととか、いろいろと話し込んで、その後、缶ビールを買って、ビーチでも飲んだ。
聞けば、宮古島出身の人で、もともと博報堂にいて、出向で入った創業間もないソフトバンクで、ずっと働いていた人らしい。何年か前に沖縄に戻ってきて、広告業をやってるという話だったが、僕が農業しながら自給自足生活がしたいと話すと、沖縄の地主を紹介しようか?と言ってくれもした。
まあ有難い話なんだけど、沖縄で農業をやってる自分がいまいち想像できなかったし、北海道で見た農薬な化成肥料撒きまくりの慣行農業もやりたくなかったし、沖縄で土地を借りて農業やると、後々、地主と揉めることが多いという話でもあったので、話は進めなかった。
宮古島へも飛行機で渡り一週間くらい滞在した。宮古島で思い出深いのは、島唄のライブが聴けるお店が、超盛り上がっていて楽しかったなぁ。また行きたい。
本島で一週間、宮古島で一週間、北海道で知り合った女性がたまたま沖縄に遊びに来ていたので、一緒に沖縄を巡った。北海道でも何度か会っていたが、気が合う人なので、楽しかったな。
そして、沖縄での楽しい1ヶ月もあっという間に過ぎて、北海道に戻る時期がきた。那覇空港から鹿児島空港へ飛行機で移動した。那覇空港のカウンターで、閉所が苦手で、マスクさていると呼吸困難になるので、マスクを外してもいいか、と聞くと、快く承諾してくれ、隣に乗客のいない席にしてくれた。
11/8に鹿児島空港に着いて、駐車場から車を出して、一路、実家の埼玉に向かった。冬服を取りに行く為だ。
行きと同じく、鹿児島、熊本、福岡、山口、島根、鳥取と来て、11/11に名物駅長のいる、道の駅あゆの里矢田川へ寄った。オートキャンプ場の道の駅だが、キャンパーの間では知る人ぞ知る駅長で、ヘビーリピーターもいるほどの人気スポット。実際に会えたが、初対面ということもあってか、わりと普通の人だった(笑)
その翌日の11/12、兵庫県三田市にある母方の先祖の墓と、京都にある母方の祖父の墓に寄り、ついでに比叡山とその周辺も回った。もちろん墓に先祖の魂が入ってるなんて思ってないから、墓参り目的ではないのだが(笑)
そして、滋賀、三重、愛知と来て、静岡から山梨にかけて富士山を見ながら、11/13に埼玉の実家に戻り、翌日出発して、11/14に新潟港からフェリーに乗って、11/15に小樽港に到着。
会社で借りてくれたマンスリーマンションは、職場から徒歩15冬、自転車で5分くらいの距離にあるマンスリーマンションで、新しくて広々として1DKだったマンションだった。会社が出してくれたお金で、100均に行き、調理道具を揃えたので、自炊もできて快適だった。
ヤクザが多いことで有名な札幌市白石区、アレフという元オーム真理教が母体となった施設も歩いて五分くらいの所にあった。しかし、危ない目に合わなかったどころか、よく通った地元の飲み屋さんでは、仲良くなったマスターや常連客の人と楽しくお酒も飲めたし、僕が滞在中、自転車まで貸してくれた。
さらに地元商店街でスタンプラリーがあって、スタンプあと一つというところで札幌を去らなくてはならなくなったので、仲良くなった常連さんにカードを渡したら、なんと、スタンプカードを埋めてくれて、おまけに一等の海鮮セットが当たり、後日、埼玉の実家にそれが送られてきた(笑)
どうも、よく行ってた店のマスターが、商店街の会長さんだったみたいで、彼の力で一等にしてくれたようだ(それ以外に一等が当たる理由が思い浮かばない)。まあ、何にせよ、有難いことだよね。
札幌市のこの年の冬は、異常な大雪だった。札幌市にいる間も、休みのたびに、札幌市内と周辺の神社を巡っていた。
で、12月半ばまで、雪の降らない暖かい日が続いていたのだが、そんなある日、松田聖子の娘が札幌市内のホテルで飛び降り自殺したといあニュースがあった。これはもしや、と思ったら案の定、それから馬鹿みたいに大雪が降った。
札幌市に住む地元の人によると、例年は12月に雪が降っても、少しずつ積もるから雪かきもそれほど苦にはならないらしい。しかし、この年は、一日に数十センチ以上、しかも連日降ったので、雪かきが大変だと言ってた。
そして、任期を終えて、小樽港からフェリーに乗り新潟港で降りると、こちらも大雪。なんと、埼玉まで大雪だった。
翌年一月の北海道もJRが運転停止するほどの大雪にみまわれていたなぁ。
あと、沖縄のところでも述べたけど、富良野のは夜に結構飲んでも、朝起きて、一度農場に出ると、みるみるうちに元気になった。
しかし、札幌ではそうはいかなかった。もちろん夏と冬の違いもあるのかもしれないが、やはり土の見えている田舎の土地と、コンクリートで固められて都市部の違いは感じた。そした、インフルエンザの様な高熱を出してしまい、コロナを疑われたので、数日間仕事を休んだ。
そして復帰の条件として、簡易検査キットの判定げ陰性であること、と言われたのだが、ま見事に陰性だった(笑)
仕事としては、勝手知る倉庫仕事だったので、余裕だった。前年に働いていた二人は、時給を稼ぎたかったのか、夜まで職場にいたそうだが、僕はだいたい午前中に終わらせてたな。毎日あまりにも早く終わり過ぎてたので、社員の人が逆に気を使ってくれて、午後三時くらいまでは、社員の人と喋くりながら、ボケーっと過ごした。
この社員の人とは話があって、ミAアを紹介したらハマってくれて、本まで買って読んでくれた。
▼ 音楽遍歴 社会人以降 30代、40代、2005年~2022年
https://joumonjirounoheya.blogspot.com/2023/03/304020052022.html?m=1
続く