生い立ち 25〜36歳 2000-2011

◉2000年:25歳

仕事に関しては、何をしていたのか、あまり記憶がない(笑)

ローンの数字増やせ、投資信託取ってこい、積み立て預金取ってこい。どれも、退屈な仕事だったな。

常に何かに追われている様な感じがして、楽しそうに仕事してる人が職場にいない様に思えた。

確か、この年だったと思う。ロバート・キヨサキという人が書いた『金持ち父さん・貧乏父さん』という本が大ヒットして、普段、自転車の雑誌以外読まなかった僕も、たまたま書店で目にして、そのタイトルに惹かれて購入。面白くて、一気に読んでしまった。

この本が面白かったのは、資産運用の具体的な方法論以上に、人生哲学の様なものの考え方に力点が置かれていたこと。自分で自分の人生の主導権を握り、コントロールすること。漫然とただ生活しているだけでは、自分の人生を疎かにし、人の利益の為だけに知らずに生きることになるという様な話とか。

僕は、親父がサラリーマン、両祖父も(まあ出世した方だとは思うけど)サラリーマンだったから、自分自身、個人事業主になるとか、ビジネスを興してビジネスオーナーになるとかイメージはなかったんだけど、そういう選択肢もあると気づかせてくれた本。

この本を読んでから、取引先の社長に会って話を聞くのが、以前より楽しくなった。

ある社長さんは、東京にも何店舗か出店している有名なケーキ屋さんの社長さんだったが、いつも目の下に深いクマを作って「昨日もお客さんと遅くまで飲んでてさ」なんて言いながらも、目が輝いてたのを覚えている。

この社長さんに気に入ってもらえたみたいで、会社に誘われたんだけど、祖父のコネで入った銀行だったし、辞めてすぐに取引先に行くと後々でいろいろと面倒かなと思って、せっかくの申し出を受けなかった。

ただ、社長と社長の実の弟の専務は楽しそうだったけど、その二人に仕える常務は、ストレスなのか、付き合いの飲みのせいなのかは分からないけど、体調を悪くされていたので、それもあったかもしれない。

思い出深いのは、夏休みに、輪行バックにマウンテンバイクをバラして入れ、静岡から電車を乗り継ぎ広島の尾道まで行き、そこでマウンテンバイクわ組み立て、しまなみ海道を渡って、今治に行き、山越えて松山に入り、仲の良かった上司がたまたま夏休みで愛媛の実家に帰省していたので、松山で会って、一緒に道後温泉へ行き、帰りは、神戸までフェリーで移動して、そこから電車で静岡へ帰るという旅をした。

沼津支店の同期と、マウンテンバイクのワールドカップを観に行ったのと、同期の車にマウンテンバイクを積んで、京都まで行き、市内観光をしたのも楽しかった。

京都の街をマウンテンバイク で巡る
沼津支店の同期と、アメリカの大学の一年後輩の女の子

◉2001年:26歳

銀行辞めると決めていた年になった。僕がやる気がなかったばっかりに、一つ上の先輩がなかなか転勤できないでいると感じていた。

3年間で辞めると決めていたものの、とにかくこの人を送り出すまでは辞めないぞと決め、そこまで頑張ることに。結果、6月に先輩の転勤が決まり、先輩の転勤直後に退社の旨を伝え、9月に退社することになった。

退社理由は、”仕事がつまらないから”が本音だったが、アメリカの公認会計士の資格を取る為、という理由の方が、波風立たなくてすみそうだったので、そういうことにした。ま、実際、米国公認会計士の勉強はしたんだけどね。

退社後、実家のあった千葉県松戸市へ。三台あったマウンテンバイクのうち、ダウンヒルバイクは仲の良かった銀行の取引先の社長に、静岡で買ったもう一台は銀行の同期に買ってもらった。高校生の時に親に買って貰った思い出の一台は、手放せなかったので実家に持っていくことに。静岡で乗っていた自動車は手放した。

とにかく、銀行はルール、ルールでうるさかったので、辞めてからまずやったことは、坊主頭にして、髭を生やしたことだった(笑)

自己都合で、大した金額ではなかったとはいえ、失業手当を貰っていたので、毎日近くのスポーツジムに通った。毎日結構長居していたが、開店から閉店近くまでいたこともわりとあったので、「いつもいるあの人」は、時々、スタッフと間違えられたほど(笑)

3ヶ月でベンチプレスで100kg持ち上げられる様になると目標設定し、毎日ウェイトトレーニングと、スタジオプログラムに出た。

おかげで?ジムで見知らぬおじさんに、「にいちゃん、格闘家か?」と言われるくらいムキムキに。

結局、ベンチプレスは、3ヶ月で95kgまでいった。せっかくだから、100kg目指しても良かったけど、流石に3ヶ月も毎日通っていたので、ジム通いも飽き始めていた。

この頃の風貌は、坊主頭に髭面、ムッキムキボディ。はたから見ると、カタギの人間に見えなかったのかもしれない。ある日、ジムに行く途中、いかにもヤクザな太ったおじさんに声かけられ、なんか絡まれたかなぁ、やだなー、と思ったら、マル暴の警官だった。

「いやね、あなたを疑ってるわけじゃないんですよ、疑ってるわけじゃないんですけど、最近この辺で空き巣被害が増えてましてね。こんな、平日の昼間から何をされてるのかなって思って」と、明らかに疑ってる台詞を言われ、ヤクザだと思ったオッサンに、犯罪者扱いされたことにショックを受ける。

そういえば、この時期のとある日に電車に乗ったら、ベビーカーに赤ちゃんを乗せたお母さんがいて、赤ちゃん可愛いなぁ、と思って見てたら、お母さんと目が瞬間、逃げる様に隣の車両へと移動していった。

銀行員時代なら、間違いなく笑顔が返ってかるシチュエーションだっただけに、ショックだった。結論、見た目は大事です(笑)

ジム通いの3ヶ月が経った頃、毎日筋トレばかりも飽きてきたので、米国公認会計士の学校に通うことにした。当時は、4科目中3科目受かれば、会計事務所の求人は引く手数多だった。

◉2002年:27歳 失業保険が切れたので、バイトをすることに。ちょうど、通っていた米国公認会計士資格試験の学校(ANJOインターナショナル)がアルバイトを募集していたので、そこでバイトをした。

時期は正確ではないが、この年だった様に思う。

『金持ち父さん 貧乏父さん』を読んで以来、サラリーマン→個人事業主→経営者→投資家になるという道筋を考えていたので、とにかく、何か事業を起こしたいという気持ちだけは強かった。

具体的に何を扱うかは決まってなかったけど、なんとなく和(=日本)をテーマにしたことをやりたかった。

そこで、まず名前(屋号)を考えることにした。

和という字を入れることだけは決めていた。

その時、たまたま読んでいたアメリカのマーケティングの本に、名前をつけるなら、視覚情報だけでなく、五感に訴えかける様な名前が記憶に残りやすくて良い。例えば、レッド・ホット・チリ・ペッパーの様な名前なら、口の中に唾が湧いてくるでしょ、という様なことが書かれてあった。

なるほど。さしずめ、日本なら山葵(わさび)か、と。

で、”和さび”から、和作美(和が作る美)となり、もう一声!ということで、これにスタイルという意味で粋(いき)という字を付け足して、和作美粋(ワサビー)が完成したわけです(笑)ちなみな、ローマ字表記は、Wasabie。

まあ、こんな名前をつけちまった以上、和をモチーフにした事業をしないと、とこだわってしまったのですな。

当時は盆栽がちょっとしたブームで、苔玉(こけだま)が流行っていた頃。僕も御多分に洩れずで、作りましたよ、苔玉(笑)

埼玉にある盆栽村にも行ったし、イタリアで盆栽学校やってる植木屋さんを訪ねたりもした。剪定用の盆栽セットも買って、自分で作った盆栽を友達にプレゼントしたりもした。

ただ、その頃はまだアーリーリタイアメントが最優先目標だったので、儲からなさそうな盆栽や植木屋を業としてやるイメージは湧かなかった。

その頃、僕が気になっていたのが、日本の家電のカッコ悪さ。というか、海外の家電のデザインの良さ。

日本の”壊れない技術”はすごい。でもデザインが残念。一方、海外の家電はデザインは良いが、すぐ壊れるというイメージ。ならば、海外のデザイナーにデザインして貰って、日本の技術で家電を作ったら、売れるんじゃないかと思ったわけ。

それで、大田区にあるテクノ産業プラザだったかな?にも足を運んだりした。けど、所詮は、サラリーマンの息子。そこから先、どうしたものか分からなくて、志しはそこで途絶えてしまった。

何年か後にテレビで、僕が考えていたことを、まんまやってる若い人が特集されてたけど、まあ、その人(確か女性だった)は、もともと家電メーカーに勤めていた人だから、業界の事情がちゃんと分かったいたんだな。餅は餅屋というわけです。

まあ、そんなことで、自分のやりたいことをビジネスという形にする方法が全く想像できず、また初心に返って、投資資産を運用してアーリーリタイヤを目指す路線へと戻っていった。

◉2003年:28歳 資格の学校のバイトは、教材をコピーしたり、通信教育の人向けに発送したりする、いわゆる軽作業の仕事で退屈だった。

初心にかえって、資産運用の学べる職場を探した。とはいえ、日本の銀行はコネ無しで入れそうにないし、証券会社もノルマがきつくてハッタリの世界。うーん、これは、不動産か?と思って、不動産会社のアルバイトを探した。

ちょうどその時、資格の学校のあった秋葉原で、不動産会社のバイト募集を見つけて応募するも、早々に他の人で決まってしまい不採用。

勤務地は希望するエリアではなかったが、たまたま同じ頃、募集していた港区赤坂にある会社のバイト募集に応募し、面接を受けに行ったところ、社長に気に入られて受かる。

気にいられた理由は、僕が将来独立したいという意志があり、社長との距離が近い中小企業で業務に携わりながら、経営を学びたい、と偉そうなことを述べたから。

その会社はリクルートという会社の住宅情報部の部長だった人が立ち上げたベンチャーで、リクルートという会社の社風がそうなんだけど、指示待ち属はいらないという考え方の社長だったので、僕の何気ない一言がハマったらしい。

不動産業界の繁忙期である12月〜翌年3月までの期間限定バイトとして採用されたのだけど、米国公認会計士の資格試験が5月だったので、ちょうどいいタイミングだった(ま、試験は惨敗だったんだけどね)。

この会社の業務は、部屋探しをしているエンドユーザーと不動産屋を繋げるコールセンター。

時代は、部屋探しが紙媒体からネットで探す時代に移り変わっていく、ちょうど過渡期。リクルートは当時、フォレント(だったと思う)という部屋探しのポータルサイトを運営していたのだけど、ネット経由で問い合わせしたユーザーのところに、いつまで経っても不動産会社からの返事が来ない。

それもそのはず、町の小さな不動産どころか、そこそこの規模の不動産屋だって、メールも使えない担当者がいっぱいな時代だったのだから。

で、そのクレームがリクルートに殺到したらしい。で、当時リクルートの住宅情報部の部長をしていた人が、リクルート内にユーザーからの問い合わせの一次対応をするコールセンターを作ろうとしたんだけど、ちょうどこの頃施行された個人情報保護法がいろいろと面倒で、大量の個人情報を抱えるリスクがある、オペレーターを大勢抱えるコストがかかる、リクルートでやるビジネスではないよね、と却下されて、自分で独立して、この会社を興したらしい。

で、僕が担当したのは、普通の賃貸住宅物件ではなく、当時流行り出したウィークリーマンション、マンスリーマンションの受付、取り継ぎ業務。

一般賃貸は既に飽和状態で駅近以外は、新築でもどんどん賃料が下がっていった時代。しかし、ウィークリーマンションやマンスリーマンションといった、短期出張や単身赴任者のニーズにハマった。

駅近から遠い物件でも、例えばそれが勤務先の現場の近くなら、駅の近くのホテルを借りるより便利である。そして、ビジネスホテルの様な狭苦しい部屋ではなく、単身用のアパートなら、それほど窮屈な思いもしなくてすむ。おまけに生活に必要な家具・家電があれば、すぐに入居できるし、退去の時も楽。

ということで、部屋を少しでも高くしたいという不動産屋の思惑と、少しでも便利で快適な所にリーズナブルな賃料で部屋を借りたいという借り手側のニーズが合致し、賃貸不動産業界では、空前のウィークリー・マンスリーマンションブームになっていた。

さて、そんな中、僕はコールセンターでの受付業務をしてたんだけど、受付自体は大した仕事じゃなかった。

しかし、社長にやる気を見せておこうと、受付業の他に、頼まれてもいないのに、覚えたてのパワーポイントで業界動向の資料とか作って社長に見てもらったりした。

今見たら笑っちゃう様な稚拙な内容の資料だったけど、やる気は認めてもらえたのか、ある会合に連れて行ってもらえるようになった。

社長さんは、元リクルート住宅情報部の部長というだけあって、不動産業界での顔が広く、親しい知り合いの中には上場企業のオーナー社長も何人かいた。

僕がバイトで入った頃、その一人が全国の中小不動産業者を集めて、マンスリーマンション業界の雄、レオパレスに対抗するネットワーク作りを画策してるところだった。

で、能力はともかく、やる気だけは認められた僕は、社長だけが集まる会合に連れて行ってもらったわけ。

当時の僕としては、海千山千の不動産業界の社長だけが集まる会合で刺激的な話が聞け、やる気がさらに加速していく。

◉2004年:29歳

3月に期間限定アルバイトが終わり、渡米して米国公認会計士の試験を受けるも惨敗に終わり、さて、どうしたものかと思っていたところに、先の不動産屋の社長から連絡があった。

「例の不動産ネットワークの事務局をやらないかと頼まれているんだが、おまえがやるなら、受けようと思う」という話だった。

正直、米国公認会計士の勉強はあまりに中途半端だったが、学び始めた頃と違い、この時は既に、4科目中3科目受かって、なおかつ簿記一級、英検一級以上の方は、面接に来てください、という非常に高いハードルに変わっていたので、正直、米国公認会計士の勉強を続けたところで、その方面への就職は厳しそうだった。

正に、渡りに船という感じで、ベンチャー社長の誘いを受けることにした。

ただ、それでも、(何をやるかは決まっていないにせよ)将来的に独立する気はあったので、社員という形ではなく、業務委託という形態で働くことをお願いした。ま、実際には、他の社員と同じ社則が適用されていたので、実質的には正社員と同じだったんだけどね。報酬は30万円だった。

社内でマンスリーマンションの問い合わせ受付業務をこなしながら、時々、不動産ネットワークの事務局として会合に出る。

このネットワークで学んだことの一つは、経営者(最終決裁権者)だけが集まる会合と、現場担当者だけの会合では、明らかに話の内容が異なるということ。

まだまだビジネスでの成功とアーリーリタイアメントを夢見ていた僕は、何をするにせよ、力のある人と組もうと決意する。

朝は気合いを入れて4時起きして、6時にはオフィスのある港区赤坂に到着。近くにあった日枝神社にお参りして、出社するといった毎日だった(ま、4時起きは半年くらいしか続かなかったけど)。

そういえば、なんで4時起きなんかしてたんだろうと考えてみたが、確か、不動産ネットワーク主宰の上場企業社長さんが、4時起きはいいぞ、って話をしてたからだった。

なんか良さそうと思ったことは、とりあえず一度試してみないと気が済まない性質(笑)

僕がいた会社は、コールセンターなので、基本的に、お客さまと相対することは、殆どない。ないのだが、来客はあったので、ドレスコードは、ブルージーンズはダメ、シャツは襟付きという、緩めのドレスコードだった。

ただ僕だけは、社長さん達との会合も月1一以上はあったので、いつもジャケットとパンツスタイルか、会合の日にはスーツを着て出社していた。

この頃、たまたま入ったトゥモローランドの店長が面白い人で、どうせ買うならこの人の店で買おうと決めて、以来、この店に通うことになる。

▼音楽遍歴 社会人になってから 1998〜2004

https://joumonjirounoheya.blogspot.com/2023/03/20-2004.html?m=1

◉2005年:30歳 事務局では、会員さんの信頼も厚く、仲良くしてもらってたけど、何故か、社内では敵だらけ(笑) まあ、敵ってわけじゃないんだけど、とにかく社長含め12人しかいない小所帯で、男性3人、女性9人の女の園。

僕は、姉が2人、妹1人の姉妹に囲まれて育っているので、女性慣れしている方だとは思うんだけど、なんかこの頃は、社内での人間関係が空回りというかギクシャクしていて、たった一人しかいない貴重なバイト戦力(全員女性)を何度も辞めさせてしまって、窮地に立つこと数知れず。

あまり言いたくはないけど、恐らく、他の社員をどこか見下してたというか、自分は違うんだぞ、という気持ちが、知らず知らずのうちに、表情とか態度とか、言外のところで現れていたんだろうな。

サッカーを夢中になってやっていた頃の経験から、仕事を好きなことにして、朝から晩までやっていったら、自然と能力も上がるだろうという考えはあった。

確かに、一時期、一つのことにフォーカスして、エネルギーを注ぎ込むことは効率の良いやり方とされているんだけどね。

当時の心境を振り返るに、とにかく(仕事上の立場が)上の人に認めてもらいたい。あと、仕事できる男になって女性にモテたい(笑)そして、実際にモテていた(笑)

そういう気持ちで仕事してたから、やりたいことをしてたというより、やりたくないことも一生懸命にやっている風な仕事の仕方だったんだろうな。

朝から晩までオフィスにいて、時には泊まり込みしたり、努力気合い根性は見せたし、与えられた目標もこなしてはいたが、注ぎ込んだエネルギーに見合った成果が返ってきてない、効率の悪い仕事のしてるという思いはあった。

周りを見回すと、不動産ネットワークの若い担当者の中には、休みの日も人生エンジョイしつつ、仕事の成績も良い人もいて、なんで自分はこんなに働き詰め(本当に休んでなかった)なのに、大した成果が出ないんだろうと、焦ってた時期。

しかし、やる気と責任感は認められたのか、報酬は50万円/月に上がった。

この年、仕事をする上で一つの課題があった。それは、人前で緊張せずに話をすること。それは、ビジネスで成功する上で必須のスキルとされていたから。

成功する覚悟は出来ていたので、果敢に挑むことを決意。

で、まず、不動産ネットワークの仲の良かった担当者だけ、数人集めて食事会を開き、その冒頭に演説を打ったわけですよ(笑)

集まった人からすると、和やかな食事会かと思って来たら、こいつは突然何を話し始めるんや?という冷ややかな目(笑)

その冷たい視線を感じて、さらに緊張が高まり、かといって止めるにやめれず、あまりに緊張し過ぎたのか、だんだん(呼吸困難になってた?)視界が狭まり、気付いたら、数秒間立ったまま意識を失っていたらしい(笑)

とまあ、苦い演説デビューとなり、居合わせた方々には、迷惑と心配をかけたわけですが、まあ最低最悪な状況は味わったということで、人前で話すことにも段々と慣れていった。

あと、この頃、情報商材なる商品がネット上で出回り始める。僕も、マーケティング絡みの商材だったが一つ購入した。それをたまたま不動産ネットワークの担当者の一人に話したところ、「ああ、その分野の大ボスみたいな人がいるから、その人の本読みなよ」と紹介されたのが、神田昌典氏。

アメリカから、エモーショナルマーケティングとかダイレクトレスポンスマーケティングといった心理学を駆使したマーケティング手法を日本に広めた第一人者(なんて書くとカッコよく聞こえるけど、まあ、洗脳の一種だね、これ)。

でまあ、当時は、神田氏が日本に持ち込んだマーケティング手法も面白かったので、彼の本はかなり読んだのだけど、この人、マーケティングだけじゃなくて、能力(脳力)開発系のフォトリーディングマインドマップも日本に持ち込んだ人で、僕も彼の会社の主催するフォトリーディング講座を受講した。

その能力開発系も衝撃的な内容だったが、当時の僕にとって一番衝撃だったの本は、神田氏が書いた自己啓発本の「非常識な成功法則」。

詳しい内容は、あまり覚えてないけど、とにかくこの手の本を読んだことがなかったので、すごい衝撃を受けたのを覚えている。

特に気に入ったのが、自分の夢を紙に書くと叶うというもの。

以前の僕だったら、眉唾ものと一蹴していたかもしれないけど、当時の神田昌典という人は飛ぶ鳥を落とす勢いのマーケッターであり成功者。

そんな人が言うのだから、そして、能力開発系の本も読んでいたので、きっと科学的根拠も何かあるに違いないと、勝手に想像した。

まあ、誰に宣言するわけじゃなし、書くだけ無料だから、書いて損はないよね、ってのが一番大きかったところだけど、仕事で行き詰まっていた時だったし、とにかく試してみることにした。

で、素直な僕は、すぐに100個くらい書いたわけです。小さなことから、大きい(と思える)ことまで。

なんて書いたか、あんまり覚えてないけど、一つは、報酬を30万円から50万円にしてもらう、ってこともそうだね。これは、確かに実現した。

まあ、結論から言ってしまうと、全部実現してたら、僕は今頃、広尾に豪邸を持って、フェラーリとポルシェを所有し、世界中をファーストクラスで飛び回り、一流ホテルを泊まり歩く、そんな優雅な暮らしをしているはずなんだけど、そうなってないどこらか、真逆に近い人生を送っている(笑)

願望を紙に書く、というワークを通して学んだことは、本気は叶う、100%の自信があることも叶う。でも、自分の本心でそこまで望んでいないことは実現しない、ということ。

そして、この”紙に書く”という方法に出会ってから、僕は本気で、子どもの頃からの夢を目指すことになる。そう、子どもの頃から憧れていた先祖のいた世界、日本の中枢に行くことを。

僕はその夢を”日本の中枢にいる”と名付けた。

そして、ほどなくして、日本の中枢へ行くきっかけとなりそうな人物との出会いがある。

その御仁は、関東鹿児島県人会のドンみたいな人で、経営の神様と言われた故稲盛和夫氏も頭が上がらなかった人。

この人とは、母方の祖父が会長を務めていた真向法というストレッチ体操の協会の総会(の後の懇親会)で出会った。

 

僕の母方の祖父というのは、高野連の会長をしていたのだが、昔から健康維持の為に、真向法をやっていた。

その真向法協会で、いろいろと内輪揉め?があった時に、僕の祖父を会長に推薦したのが、その薩摩のドンだった。

実は、僕が真向法の存在を知ったのは、祖父がやっていたからではなく、別のルート。

僕の父親がその昔、ある上場企業の秘書課長をしていた頃の話だが、その会社の初代社長が、安岡正篤という歴代総理の指南役とか昭和のナンバーワン・フィクサーとか呼ばれる陽明学者さんの愛弟子の一人で、実家にたまたま置いてあった安岡先生の本を読み、安岡先生が真向法を熱心に続けてこられたことを知って興味を持ったことから(ちなみに、安岡正篤さんの晩年に内縁の妻となったのが、六星占術を創ったとされる細木数子)。

で、安岡正篤先生が真向法を熱心にやられていたということで、政財界の重鎮達もこぞって真向法をやる様になり、会員数は一万人の巨大組織に。ということで、なんか面白そうな人がいると思って、そういえば、うちの爺さん、真向法協会の会長やっとったなー、と思い出して、総会に出席。

爺さんが仕事をしてる姿なんて、高野連の挨拶くらいしか見たことなかったんだけど、会員数一万人の組織の総会を仕切る祖父の姿は、鬼気迫るものがあって、新たな一面を見た気がした。だてに戦争経験しとらんなーと妙に納得。

そして、その後の懇親会で祖父が僕を紹介したのが、薩摩のドン。僕より半世紀年上の昭和元年生まれ。

小柄で柔和なお顔なれど、背筋はピンと伸び、かくしゃくとして、そのしゃがれた声には、幾多の修羅場を潜ってきた様な凄みを感じた。

その時、一緒に参加していた母に、その人のことを尋ねると、よく知らないけど、政財界で活躍されてる方みたいよ、との返事。間違いない。

僕が日本の中枢に辿り着けるとしたら、そこへ連れて行ってくれるのはこの人だ!と直感的に感じた。

そして、居ても立っても居られなくなって、祖父に”薩摩のドン”に会ってお話をお聞きしたい、とお願いした。

祖父は電話越しに「聞いてみる」とだけ言い、後日、渋谷セルリアンホテルに入っていた、なだ万という料亭でお会いすることになった。

当日、真向法協会の用だったか、高野連の用だったかは忘れたが、上京して渋谷の定宿であるセルリアンホテルに泊まっていた祖父の部屋を訪ねた。

部屋に入ると、なぜか不機嫌そうな顔をした祖父がいた。「おまえは話をお聞きしたいと言ってたが、具体的に何を聞きたいだ?」と、唐突に聞かれて、上手く答えられず、答えあぐねていると、「お忙しい方なんだからな。そんなことではダメだ!」と叱られた。

別に、あんたの話を聞きたいわけじゃないんだから良いだろうと思ったが、祖父のイライラが鎮まらないと、肝心な薩摩のドンの話に集中できないと思い、『大成された方が、どの様な志を持っておられるのか、普段、どの様なことを大事にされているのかを、お聞きしたいと思っております』と答えたら、『そうか』と一言。

後から思ったことだが、祖父からしたら気に入らなかったのかもしれない。自分だって、そこそこ有名人だし、財界人としても勲三等貰うほどの実績もあるぞ、と。

ただ、こういうのは相性かもしれないし、親族だからという関係性かもしれないが、僕は野球には全く興味が無かったし、子どもの頃から、特段、祖父の生き方に憧れたこともなかった。

僕が当時目指したのは、あくまでも母方の祖母の先祖がいた日本の中枢であり、僕がそこに辿り着けるとしたら、あの得体の知れない薩摩の御仁以外には、ないと思えたのである。こう言っちゃなんだが、祖父が入ってくる隙間は、1mmも無かったのである。

でまあ、祖父と僕、薩摩のドンと真向法協会の副会長という4人で会食。

僕はとにかく、ドンの言葉を一言も聞き逃すまいと、尋ねられたことを答える以外は一言も発せず、聞き手となることに専念することに決めていた。

ただ、どうも、ドンの様子がおかしい。なんか試されている様な、挑発的な様子も伺える?えもいわれぬ居心地の悪さを感じつつ、話に耳を傾けていると、『ところで君は、今どんな仕事をしているんだね』と聞かれる。

不動産系のオペレーターセンターなんて言っても理解出来ないかもしれないので、『はい、不動産関係の仕事をしております』とだけ答える。

すると、『そうか奇遇だな。僕も今ちょうど人から頼まれてね。青山の一等地にある何千億かのヤクザ者の絡んだ土地を処理してあげてるんだよ』

キターーーーーっという感じである。何を言ってるのかよく分からないけど、ただならぬ雰囲気を感じ、聞く姿勢がさらに前のめりになる。

後々、当時のことを思い返して思ったのだけれど、ドンは、どうも僕が生意気にも一緒に仕事をしませんか?と話をしに来たと勘違いをていたらしく、「君とはレベルが違うのだよ」と、きつく言い放ったら諦めるだろうと思っていた節がある。

ところが、言われたこちらは、ますます興味津々で(恐らく目を輝かせて)、話の続きを待っていたわけだから、拍子抜けしたようだ(笑)

で、次に、『君は何年生まれだね』と尋ねられたので、1975年の4月ですと答えると、『そうか、君は七赤の六白か』と。なんの話かよく分からないけど、誕生日聞かれるってことは、易か占いの類だろうと思って、『それは、安岡正篤先生の言っておられる様なお話ですか?』とかなんとか尋ねると、僕の様な若輩者から、陽明学の権威である安岡先生の名前が出るとは思わなかったらしく、『なんだ君、安岡先生のことを知っているのかね』と言われたので、『お名前だけは存じております』と答える。

で、機嫌を良くされたのが、『もし君が、そういう話に興味があるのなら、僕が理事をしている財団で学べるので、ここへ電話していらっしゃい』と、その財団の会報誌を渡される。

心の中で、ガッツポーズである。これで、祖父にいちいち頼まなくても、ドンの所へ会いに行って話が聞ける。

しかし、この出会いには運命を感じた。もし、その時、ドンがその財団の会報誌をたまたまポケットに入れていなかったら、恐らく話はそこで終わっていたのだから。

翌日、早速その財団へ電話を入れ、講義を受けたい旨を伝えると、たまたまその週の日曜日に月一回の講義があるという。もう、あと先考える余裕もない。当たって砕けろだ。

その財団に行ってみると、ドンがいて、『なんだ、君、本当に来たのかね』と驚かれた。

(本当に来たのかね、はないだろうよ、と内心思ったが)『はい、精進の為に勉強させて頂きに参りました』と答えた。

こうして、夢の実現に向けて、現実が大きく動き出した。

当時働いていた会社の仕事は、いろいろと困難を抱えながらも、社長からも、取引先からも良い評価を得ていたので、やりがいはあった。

しかし、日本の中枢という目標を立ててしまった後では、不動産業界に残り続けて人生を終えるのは、もったいないという気持ちに駆られるようにもなった。

そして、僕の気持ちが揺れ動くのに呼応する様に、不動産業界の環境も徐々に変わっていく。

僕が受け取っていたマンスリーマンションの受付だけでなく、メインの一般賃貸物件の方も、不動産屋が自分達でネットの問い合わせに対応し始める様になった。

敏腕ビジネスマンの社長も当然その変化には気付いていて、次のビジネスを模索していた。

僕は、新たな目標を見つけ、そろそろこの会社での仕事も潮時だな、と思って、社長にマンスリーマンション部門の閉鎖を進言した。

いつ頃だったろうか。社長から、新たなビジネスを新体制でやろうと思っているが、手伝わないか、と提案された。

それまでコールセンターとしての現場で培ってきたノウハウ、それを支える自社開発したプログラムのCRM機能に加え、管理会社の物件に空きが出たら自動的に仲介会社にFAXが送られる機能と、フォレント、アドパーク、アットホーム、ホームズと、フォーマットが異なる不動産検索サイトへの入稿を一括して行える機能を備えた新しいシステムを開発し、コールセンターから、システム会社へと転向するという計画だった。

当時はまだホリエモンとlivedoorも元気なネットバブル期で、2000年代初頭にベストセラーとなった『金持ち父さん貧乏父さん』からの流れで、日本に一大IPOブームが起こっていた時期。

不動産会社に入って不動産運用を学ぶつもりが、誤って(不動産管理会社を相手にした)コールセンターで勤めることになった僕に、やってきた、システム会社のIPOでネットバブルに乗る千載一遇のチャンス!(笑)

日本の中枢へという夢の実現への第一歩は踏み出したものの、いずれは上場させたいと語る社長の言葉に、算盤感情が優位に立ち、遺留することに決める。

コールセンター業務は年の半ばで完全撤退。30万円で作ったマンスリーマンションのポータルサイト(SEO対策の為のただのリンクサイトだけど)も取引先に300万円で売却し、僅かながら利益も出たところで、不動産ネットワークも解散となった。

システム開発までの繋ぎの期間は、リクルート出身の人のベンチャー企業が作った携帯向けCRMサービスの委託営業を一人でしていた。

せんみつ(1,000の広告を打って反応が3つ)と言われた時代に、神田昌典氏の本で学んだダイレクトレスポンスマーケティングの手法で、30社に営業資料を送り、問い合わせが3件来たのには、リクルート出身の社長も驚いていた(そのシステムのことをよく理解してなかったから、質問には答えられず成約はゼロだったけどねw)。

この時、ちょうど時間の融通が効く頃に、比叡山天台宗ニューヨーク寺院落慶式ツアーなるものに参加した。

先祖の話の中でも語ったが、親父の先祖は代々天台宗で、祖母が仏教書店の娘だったことから、東叡山と呼ばれる上野寛永寺とも付き合いがあった。

寛永寺の敷地内には、いくつかの寺院があり、そのうちの一つが、祖父母の代から付き合いがあった。

当時の僕は、上野寛永寺というネームバリューにまだステータスを感じていた頃だったし、仲間を呼んでの止観会(座禅会のようなもの)を、上野寛永寺の本堂でやってもらったりと、住職とも個人的にもお付き合いがあったので、ニューヨーク寺院落慶式ツアーの案内を目にした時には、すぐに参加を決めた。

そもそも、キリスト教が国教の国で、どんな変わり者が、仏教徒になるんだろうという興味もあった。

行くと、金髪碧眼の坊主がお経をあげている。神社も全員白人だった。

それ以上に僕が驚いたのは、参加した天台宗のクソ坊主達の態度の悪さだった。移動のバスでは、ガイドさんに向かって「姉ちゃん、冷房が寒いからもっと下げてくれ」だの、マンハッタンなレストランで食事をする時には、「なんだこの肉、硬くて草鞋みてえだな」なんて悪態をついていた。

仏に仕える身とか言いながら、わがまま言いたい放題。そもそも、ブッダは出家する物に対して、托鉢のためのお椀、楊枝、ぼろきれ二枚と言ったのではなかったのか。

煌びやかな僧衣に身を包み、肉食、妻帯、おまけに、不動産屋みたいな真似して、高級外車を乗り回す坊主達。

若い人の檀家離れが進んでいることに危機感を持っているなんて話だったけど、まあ、いずれ滅びるわな、と思った。

◉2006年:31歳

システム開発が始まった。

それまでの社員は、この会社に出資した地場の中堅不動産会社の出向社員の女性が6人くらいいて、女性が12人中9人。

システム会社への移行が決まり、出向者が不動産会社へ戻ると、代わりに、ビジネスマンとして脂の乗り切った、僕より10歳近く年上のた元リクルート社員が一度に4人も入ってきて、男6人、女性6人の体制に。しかも社長も含め、リクルート出身の男どもは、全員B型(ちなみに僕はA型)

ビジネスの経験、能力では、誰一人敵いそうにない状況で、ひたすら学びの日々。

全員B型だからか?とにかく、みんな自己主張が強く、なんだか纏まりそうにない状況下で、サブリーダーとして進捗管理を任される。

ちなみに、リーダーは外部の人で、元ボストンコンサルティング出身のSE社長。他にそのコンサル会社の人で工業プラントの設計もやっていた僕と同い年の女性SEさん。もう一人、個人でSEをやっていた元リクルートSEさんと、外部の人達も錚々たる顔ぶれ。

新しく役員として入ってきた元リクルートの人は、リクルート退社後、ゴルフ関係のポータルサイトを立ち上げ、確か6億くらいで売った後、ベトナムのハノイでプログラミングの会社を興した人。

なので、システム開発は、日本で要件定義したものをベトナムで開発するというグローバル体制だった。

とにかく、仕事環境が一変し、いろいろと勉強にはなったが、とにかく元リクルートの人達は猛烈に働く人達かつ結果にコミットした人たちだから、毎日気が抜けない日々。そして、全員B型だから毎日がカオス(笑)

これまで、忙しいと思っていたのがなんだったんだろうというくらい多忙を極めたが、優秀な人達に囲まれて仕事が出来たのは有り難かった。

システム開発そのものが、ロジカルシンキングの塊みたいな作業なんだけど、ちょうど論理的思考なんて本が世に出回っていた時期でもあり、御多分に洩れず、僕もその手の本はAmazonで買いまくって読み漁った。一冊一冊を熟読してる暇もなかったので、フォトリーディングが役に立った(と思う)。

以前受けたフォトリーディングのクラスの中で、ダイレクトラーニングという手法があって、これは、例えば、楽器の演奏の本を毎日フォトリーディング(潜在意識に落とし込む)していると、初めての楽器でもスムーズに演奏技術が身につくというもの。

僕は楽器の演奏はしなかったけど、この頃、たまたまカポェイラの動画をYouTubeか何かで観て、やりたい!と思った。

実は銀行を辞めてすぐ、毎日スポーツジム通いしている頃に、そこのジムのスタジオプログラムにヒップホップのクラスがあって、僕は興味はあったんだけど、なんか恥ずかしく思って参加しなかった。

でも、教えてるインストラクターの先生とは仲良くなって、ある時、そのヒップホップ教室の生徒さんの発表会が川崎市のクラブチッタという会場でやるから観にこないかと誘われた。

その生徒さん達とは、別のスタジオプログラムとかで一緒になることがあって仲良かったから、観に行ったんだけど、その発表会の最後に、エキシビジョンみたいな感じで、カポエィラのショーみたいなのがあった。

ヒップホップの先生によると、ブレイクダンスやヒップホップなどのルーツとも云われているブラジルの格闘技なんだとか。

僕はどちらかというと、ヒップホップよりブレイクダンスのダイナミックな動きが好きで、でも身近にやってる人もいなかったし、20才を超えてから始めるのは無理だろうと諦めてた。

しかし、その時、目の前のステージの上で展開されていたカポエィラは、人の出来ない技を追求しどんどん過激さを増すブレイクダンスと違って、ダイナミックな動きではあるが、無駄のない一連の流れの中で、理に適った動きをしていた。

ただ、その時はまだ、カポエイラすら遠い存在に感じていたので、カポエィラ教室を探すには至らなかった。

ところが、その後5年近く経ち、脳の仕組みや人間の潜在意識、宇宙物理などに興味を持ち、思考は現実化する、という概念が入った後では、カポエィラは、もはや不可能なことには思えなかった。

で、たまたまYouTubeでカポエィラを目にし、日本でもカポエィラ教室は無いのかと思って調べたところ、東京都大田区でレッスンをやってるグループだと分かったので、見学しに行き、そのまま体験レッスンを受けた。

動画は観ていたけど、全くの素人である。人生初のカポエィラは、自分でも動きがぎこちないのが分かる。基本中の基本の動作はジンガと呼ばれる動きで、意味はヨチヨチ歩きであるが、その時の僕の動きは、歩き始めた赤ん坊のヨチヨチ歩きそのものだった。

しかし、心の中は、恥ずかしさ以上に、嬉しさと興奮が勝っていた。これは、もしやサッカー以来の情熱を傾けられる何かを見つけてしまったのでは?という思いすら感じてしまった。

そこで、ダイレクトラーニングの話に戻るわけだが、早速、Amazonでカポエィラの書籍を探し、一冊だけあったので即購入。本が届いてからは、毎日、通勤電車の中でダイレクトラーニング。

もちろん、YouTubeで動画を観まくってイメトレもした。しかし、今(2023年現在)の様な通信スピードではなかった時代。特に海外の動画には、画質の粗悪な動画も多かったということもあって、必然的に通信環境を気にせずできるダイレクトラーニングに没頭した。

思い返してみると、サッカーにハマっていた小学生時代もイメトレをしていた。当時(1985〜1987年)は、週に一回、30分番組で、海外の一流プレーを紹介する三菱ダイヤモンドサッカーという番組があった。

ダイヤモンドサッカーは、毎週欠かさず観たし、ビデオにも撮って、暇さえあれば観ていた。あと、マラドーナが大活躍したメキシコワールドカップの映像も何度も何度も、それこそ、ビデオが擦り切れるほど観た。

そして、サッカー部の練習中に、或いは、家の中でぬいぐるみのサッカーボールを蹴りながら、自分がマラドーナになったつもりで、観た映像を頭の中で繰り返しながら、イメトレしていた。

話は現代に飛ぶが、今、スポーツ界の新陳代謝が早まってるように思う。日進月歩どころじゃない。昨日通用した技が、猛烈なスピードでどんどん古びていく。

イメトレ効果という見地から見れば、当然の話で、苦労しながらビデオを巻き戻し、巻き戻して観ていた僕の幼少期とは違い、今は、観たいシーンを簡単に、繰り返し繰り返し観ることができる。

しかも、世界中の最上級のプレーヤー達の最高の技を、超高画質で観れる時代だ。

が故に、競争原理を植え込むためのスポーツ業界もどんどん衰退していくだろうと思う。選手生命が、どんどん短くなるからだ。

例えば野球なら、甲子園で活躍して、プロである程度実績を残せば、引退してコーチになったり解説者になる道もあった。

ただ、これからは、野球をする為に生まれてきた一部の天才を除き、プロ野球で5年プレーするのも難しくなるんじゃなかろうか。とにかく、下からの突き上げがエグい時代になると思う。

大相撲なんて横綱大関不在とか言ってるけど、もう終わってるなーって感じがする。僕らの世代はまだ、闘争心とか競争心みたいなものが強くあったから、千代の富士とかに憧れたりもしたけど、何がなんでも勝つ!っていうんじゃない世代が、絶対に勝たなきゃいけないプレッシャーの中で、横綱とか大関という立場で長続きするとは、到底思えない。

まあ、スポーツ全般興味が無くなってしまったので、どうでもいいけど。

で、話をカポエィラに戻すと、半年後に、そのグループを追い出されました(笑)

そのグループには、本会員とビジター会員という制度があって、本会員は有段者を目指す人達。僕は、仕事が忙しくなると練習に出れない時も出てくると思って、ビジター会員として毎週一回くらいのペースで、レッスンに参加してた。

ところがだ。週一回しか練習には行かないんだが、毎日イメトレはしてるもんだから、練習に行くと、新しい技をどんどん覚えてしまうわけ。そのうち、有段者の目に止まり、中には、あまり好意的でない視線を送ってくる有段者もいたわけ。

である日のホーダ(周りで演奏しながら、円の中の2人が技を繰り出す)で、僕の相手として、その有段者が入ってきた。

なんというか、「お前、何ができるんだ。見せてみろよ」という感じの、ちょっと挑発的な態度でね。

で、こちらとしては、ビジター会員のか弱き女性が相手なら、細心の注意を払ってやるところたが、相手は男でしかも有段者ですから、もう思いっきりやれる!って、嬉しくなっちゃったわけですよ。

そうこうしているうちに、演奏される音楽も、いつものとは違う、なんか聴きなれない音楽で、ちょっと挑発的な感じになったので、僕の中のリミッターが外れてしまいましてね..。

気付いたら、僕の蹴りが、相手の側頭部にクリーンヒットして、次の瞬間、相手は膝から崩れ落ち、演奏していた全員が一斉に楽器を落とすという、最悪の状況に。シーーン。

数秒、重苦しい沈黙が流れた後、グループの代表の怒声が聞こえ、「だから、教えてない技を勝手にやるからですよ!」と怒られた。

しかし、僕の蹴りを受けた有段者にも、「まあ、避けられない方も悪いけどな」と、喧嘩両成敗的に収めてくれたんだけど、その後、ちょっと異様な空気が流れていたので、なんか稽古に通い辛くなったな、と感じた。

その頃、ブログをやっていて、その名も、カポエィリスタの逆立ち日記というものなんだけど、そこに、「代表が以前、「本気で蹴るつもりでやらないと上手くならないぞ」と、本会員に言ってたのを聞いて、本気でやったんだけど、相手に当たってしまって大変なことになってしまった。難しいなあ」という様なことをボソリと呟いたら、それを読まれた代表が、うちの誹謗中傷をするなら、もう来ないでください、とコメントをよこした。

もちろん、批判するわけでも、皮肉を言ったわけでもなかったんだけど、まあ、相手からしたら、問題児を抱え込むより、居なくなってもらった方が運営し易いという判断が働いたんだと思う。お互いまだ30歳くらいだったしね。こちらも引き際だな、と思った。

ということで、僕も素直に、批判する気は毛頭なかったことも伝え、その上で迷惑がかかる様なら行かないことを伝え、先方も、お互いカポエィラを愛する者同士、それぞれの道で切磋琢磨して行きましょう、みたいなことを言ってくれたので、円満な形で、そのグループからは離れることになりました。

と、なんかカポエィラ話が長くなってしまったけど、それは最近(2023年3月現在)、カポエィラの動画を久しぶりに観て、またやりたくなってしまったから(笑)

もちろん、強くなりたいとか、護身のためという理由ではなく、単純に動きがカッコいいのと、運動不足だからなのと、言葉を介さないコミュニケーションっていいよな、と改めて思ったから。まあ、再開するかどうかは分かりませんけど、動画は楽しいから観てます。

仕事の話に戻ると、元リクルートマンは、社長の他に4人で、うち2人は主に営業担当、残り2人はシステム開発担当。で、システム開発を指揮していた人なんだけど、先述した様に、ベトナムにシステム開発の会社を持っていたり、当時としてはかなり先進的なことをやられていたんだけど、他にも、合気道の道場を持ってたり、とにかく普通の人とは違ったところがあったんだけど、見た目は、いわゆるネット業界人っぽく、Tシャツとジーンズで出社してた。

それまでの襟付きシャツ、ブルージーンズはダメという社内ドレスコードは、この人によってなし崩し的に消滅する。

で、僕も不動産ネットワークの仕事も終わって、ずっとオフィスにいたから、正装して誰かと会う機会もなかったし、この人に倣って、ジャケットやネクタイ、革靴といったかっちり目の格好をやめて、ラフな格好で出社する様になった。

当時は、行きつけのトゥモローランドで買うか、A.P.C、もしくは、コムデギャルソンで買うことが多かったかな。

報酬が上がって気が大きくなっていたのもあるけど、当時は、『思考は現実化する』で、成功先取り体験と称して、散財してた(笑)

トゥモローランドで買い物する時には、値札を見なくなってたし、遅くなったら、個人タクシー呼んで東京都港区赤坂から千葉県松戸市の実家まで帰ったり、帰るのが面倒な時は、赤坂近辺のシティーホテルに泊まったり。

仕事頑張ってるからと、酸素カプセルに入ったり、仕事帰りに一人で寿司屋へ寄って帰るなんてこともしょっちゅう。湯水の如くお金使ってたなぁ。

あと、カポエィラやってた半年間は、カポエィラの稽古の後に、表参道のジャズバードというお店によく寄って帰ったな。大学時代に聴いたジャズの生演奏が懐かしくなって、ある時ふらっと入ったお店の雰囲気がすごく良くて。

ここでは、初めて、ウィスキーのシングルモルトをバーテンさんのススメで飲んで。

それまでウィスキーって殆ど飲まなかったんだけど、スコットランドのクセの強いシングルモルトとチョコレートやドライフルーツが、絶妙にマッチしていて、ハマってしまった。

一方、日本の中枢を目指す計画の方も、いろいろと進展があった。といっても、毎月一回、休みの日に、財団へ行って、講義を聞き、ドンの話を聞くだけ。

ちなみに、その財団は、聖徳太子を尊崇する学術団体という小難しい財団で、日本文化の礎を築いたのは、聖徳太子であり、その財団では、神道、仏教、儒教、道教を教えるという表向きの指針はあったものの、元々は、私塾として始まり、創始者が霊感の強い占い師みたいな人で、主に九星気学を教えていた。

で、薩摩のドンの他に、偉そうにしてる、とにかく元気なお婆ちゃん先生がいて、その人が、専ら九星気学を教えてるので、僕も少なからず影響を受けました。

まあ今は、占いの類は、全て洗脳の道具であり呪詛だと分かっているので、当たるも八卦当たらぬも八卦で、信じてないのだけど、当時は、これも帝王学の一種だと、嬉々として学んでたわけだから、おめでたいよね(笑)

九星気学ってのは、陰陽五行の五行だけを取り上げて、相生・相克(相性の良し悪し)を占うというもの。

つまり一人として同じ人間はいないのに、「あなたは何年何月生まれだから、本命はま◯◯で、◯◯な性格の人ですね」と型にはめ、「あなたは◯◯だから、◎◎な人とは合います、◉◉な人とは合いませんね」とやるわけ。これね、一種の分断統治ですね。

もちろん、個性のエネルギーによって、合う合わないはあるから、相性はあると思うけど、だからといって型にはめるのが間違っているのは、占う人によって相性が変わることからも明らかだよね。

同じ日に同じ病院に生まれたからといって、同じ人、同じ人生なわけはないので、それを無理やりカテゴライズするのは、かなり乱暴な話だけど、故に帝王学と言われるのも頷けるよね。支配者って、庶民のことを、そんな風にしか見てないから。

あと、世の中も、干支(十干十二支)と九気の組み合わせで、同じパターンの繰り返しだと教える。未来のことは何一つ決まっていないにも関わらず、宇宙の現象は同じことの繰り返しという洗脳。

運命もそれぞれの生まれた日の本命によって生まれた瞬間に決まっているもので、自分では変えられないことがあると強く思い込ませるためのツールだよね。

まあ、しかし、当時の僕としては、帝王学は日本の中枢へ辿り着くための必要な知識と思ってたわけで、熱心に勉強した分、影響も受けましたね。

祐気のお水取りというのも、良くやりました。その時々に応じて、あっちの方角がいい、こっちの方位がいいと、言われるがままに、あちこち旅行しましたね。

と言っても、システム開発してる頃で、土日しか休めなかったから、長くても一泊二日の小旅行。

気学の先生曰く、僕は、アメリカへ、長距離かつ長期間を大凶方位で何度も移動していて、「これだけ剋気を取って、生きてるのが不思議。よほどご先祖のご余徳があるのねぇ」なんてことを言われる始末。

そんな話を聞かされて、僕も、「そうか、だからなかなか上手くいかないことが多かったんだな」とか思ってしまい、とにかく運気を上げる為に、出来るだけ吉方位を取ろうと、意識し始めました。

でまあ、システム開発も、確か10月のカットオーバーでひと段落したんですよね。最後の追い込みの時には、ベトナムのハノイの開発チームの所へ行ってくれなんて言われて、一週間くらいいましたが、僕はベトナム語を話せるわけでもないし、プログラミングのことが分かるわけでもないし、実力のある日本人SEさんが現地にいたんで、いまだになんで生かされたのかなー、って感じですね。

ハノイは、一応、ベトナムの首都ってことで、当時のベトナムの中では、かなり進んだ街だったんだろうけど、ハノイ空港から市街地に通じる道には、信号機も殆どないし、牛が放し飼いで道の脇を歩いていたり、小さなスクーターに3人乗りしてたり、おっきな鳥かごを後ろに載せたスクーターがいたり、ベトナムに着いて早々、随分とカルチャーショックを受けました。

泊まったホテルは流石に、サービスも設備もよく行き届いていたし、英語も通じたけど、一歩外に出ると英語は全く通じないし、逆に変な日本語を話すポン引きのおじさんとかが話しかけてきて、なんだか凄い所に来てしまったなー、という感じ。街中で、薄いベニヤ板の上に生肉を置いて売ってる人もいたしね。

開発チームの入っていたオフィスも、ハノイの中では、わりと高さのあるビルに入っていたけど、7時になると、冷房が切れてしまう有り様。日本との電力事情の違いを痛切に感じたなぁ。

まあ、そんなこんなありながら、無事に、と言っても、カットオーバー直前の2,3日はオフィスに泊まり込みながらだったけど、無事にカットオーバーされ、同時になんか気が抜けてしまったな。

まあ、物が出来たと言っても、不具合が全く無かったわけではないし、そもそも、そのシステムが売れなきゃ話にならない。なんか、その頃は、社内がかなりギスギスした状態だった。

僕も、日本の中枢へ行くことの方に意識が行ってたし、会社に居残る話を受けた時に、社長に条件として提示した、ストックオプションの話も反故にされたので、赤坂の会社もそろそろ潮時かな、という思いが芽生え始めた。

社長にも辞めようと思うと話はしたのだが、まだ人手が必要ということだったのか、いつもはぐらかされて、話が進まなかった。

そして、開発がひと段落したことで、進捗管理のサブリーダーというポジションが必要なくなり、サーバーの管理と、海外不動産サイトのリサーチという楽な仕事になり、自分の仕事が終わったら、さっさと帰る様になった。僕のやる気がなくなっていたことを、社員の人たちは気付いていたと思うし、僕の言動が他の社員に与える影響について、社長も考え始めていたと思う。

で、カットオーバーの翌年だったかな、会社の人に内緒で(病欠ということにして)、祐気方位のアメリカのボストンに一週間旅行に行って。

まあ、この旅行でもいろいろあったんだけど、ズル休みして旅行に行ったのが、結局バレて、クビになりました(笑)

まあ、僕の担当していた業務についてはやるべきことは全てやっていたし、何の滞りも問題もなく、そもそも、業務委託契約なんだから、社員と同じ縛りを受ける筋合いもないんだけど、まあ、そこは信頼関係というやつでやってますからね。

辞める話をさんざん引き伸ばしてきた社長も、さすがに他の社員達の手前、辞めさせないわけにはいかなくなったようで。

ズル休みするまでの経緯が色々あったので、僕だけに非があったとは別に思ってなかったけど、相手からもう信頼できないと言われれば、まあ他人の会社ですから、それは致し方ないかな、と。

約束した上場前に株式を貰うという話も(後から知った話だけど)僕の知らないところで、元リクルートマンだけが譲渡を受けていて、僕には何の話もなかったので、まあお互い様だと思っている。

なーんて、ことを当時は思っていたけど、今振り返ってみれば、誰が正しくて、誰が間違っていたという話ではなくて、ただ、生きたいように生きていただけの話。

◉2007年:32歳

まあ、はれて無職になりまして(笑) 

実は、ボストンに旅行へ行く前に、そろそろ会社を辞めるなぁという予感はあって、また祐気取りも一生懸命やってた最中だったので、会社を離れる前に、松戸市の実家を出て、艮(うしとら、北東のこと)の方位を取って、一番家賃の安いアパートへ転居していた。

それまで、さんざん散財をしてきて、借金も数百万まで膨らんで、突然収入がゼロ。もうにっちもさっちもいかなくなりまして、人生初の自己破産(笑)元銀行員とは思えないよね(笑)

でも、不思議と罪悪感は無かったなぁ。まあ、元銀行員だからね。大手の金融機関からしたら、貸倒れリスクなんて、最初から織り込み済みだから、僕一人踏み倒したところで、大して影響ないのも知ってたから。

金持ち父さん、貧乏父さんの著者、ロバート・キヨサキも、破産することは別に恥ずかしいことではないと言ってたし。まあ、しばらく金融機関からは借りられないと思ったけど。

で、千葉県我孫子市という土地へ、変化を司るという艮の祐気で転居し、次の目標に向けた一歩を踏み出したわけなんだけど、赤坂の会社で、最後ドタバタの中で辞めたので、精神的に疲れていて、しばらくはバイトもしなかった。

もう心置きなく祐気取りの旅行もできるし、日本の中枢への道のりにフォーカスをしよう、と。

僕と薩摩のドンとの接点は、財団しかなかったので、まずは、赤坂の会社勤務時代には参加出来なかった、平日に行われる財団の行事に積極的に参加することにした。

毎月15日の大師講、財団創始者の墓参り、先天堂祭というお祭りごとなどなど。

とにかく、世のため人のため、みたいなモットーの財団だったから、我孫子市に引っ越してやりたい仕事もなかったので、市内でやれるボランティア仕事を調べ、実際にいくつか参加したりもした。

しかし、何の目的もなくボランティアをやっていたボランティアは長続きしなかった。

そして、以前の職場での経験から、我孫子市で将来何をするかは分からないけど、ボランティアをやるにしても、地元の有力者と繋がるという目的をもってやろうと決めた。有力者だけだとイメージ出来なかったので、具体的には、地主、政治家、経営者。

ある日、我孫子市から送られてきた生活ガイドみたいな冊子を、なんかバイトでもないかなーと、パラパラとめくっていたら、消防団員募集と書いてあった。団費が出るみたいだし、多少生活の足しになるならいっか、くらいのつもりだった。

で、電話したら、すぐに会いたいと言われたので、会って自分の現状を素直に話したら、ぜひ入ってくれと言われたので入団することに。最近は農家や個人事業主が減って、サラリーマンや公務員ばかりになってしまった為、消防団員の成り手がいなくて困っているという話だった。

そして、たまたま、この時は2年に一度の団員リクルーティングの年だったらしい。

団費は出るのだけど、各消防団の口座に支払われ、備品の購入にあてられたり、宴会などの費用に充当されるため、給与の様な形では出ないという話だったが、入団することにした。

正解だった。何故なら、団員全員が、地元の地主だったからだ。

☑️地主

◼️政治家

◼️経営者

さて、地主と繋がりが持てたものの、生活していくための資金の目処は立っていない。しかし、どんな仕事でも良かったわけではない。

財団の中で評価される為に、どんな仕事に就くべきか、なーんてことも考え、福祉関係がいいかなと思ったけど、福祉施設で働くのに必要な資格もないし、学校に通うだけのお金もない。

福祉は違うかーと思っていたある日、図書館に行ったら、求人ポスターを見つけた。身体障がい者の支援施設の求人で、資格不問と書いてあった。

早速電話したら即採用。明日から来てくれと言われた。

僕が働いたのは、市の施設で、身体障がい者の為のデイサービス。

身体障がい者の人達は、通常、養護学校へ行き、そこで普段の生活のことを自分ですることができ、なおかつ簡単な作業も出来る人達は、作業所と呼ばれる職場へ行く。

僕が働いた施設は、その作業所で働くことができない、文字通り行き場のない人達の為の施設。

僕はその施設の中でも、重度の障がいを持つ、個別運動班という班に配属された。待遇は、準公務員で、時給900円。

確か10人くらいの利用者さんがいて、スタッフは6名。比率的には多いのだけど、自力でトイレに行けない人が他班より多かった為、排泄介助といった他班にない仕事があった為。入ってすぐ言われたのは、「この班は仕事がきついので、すぐ辞めちゃう人が多いんですよ」だった。

まあ、確かに人さまの下の処理をしたことがない人間にとっては、最初は衝撃でしたけど、自衛隊の爆弾処理班じゃあるまいし、命の危険があるわけじゃない、と変な比較を持ち出し、自分を納得させた。

それよりも、学びの多い職場で楽しさの方が勝っていたかな。

特に、僕のいた班には、言葉で会話できない利用者さんの方が多かったので、常に相手の表情とか雰囲気から、相手の感情を読み取る(言葉を介さないコミュニケーションの) 必要があった。

赤坂の会社で人間関係に非常に苦労した経験のある僕にとって、発見が多い職場だった。

僕にとって、思い出深い出来事が2つある。

一つは、個別運動班に配属されていた時のある利用者さんを、毎日、運動のために歩いて3分くらいの神社に連れて行くのだが、行きは車椅子に乗せて、帰りは片手で車椅子を押しながら、もう片方の手で利用者さんの手を引いて連れて帰ってくるというもの。

先輩スタッフ達は、この作業(作業と呼ぶのも違和感あるけど)に、いつも手を焼いていた。

神社から施設内に戻ろと、利用者さんを車椅子から立たせようとすると抵抗されたり、歩いてる途中で地面に座り込み、なかなか立ち上がらなかったり。

歩いて3分の距離に、往復で2時間もすったもんだしてるスタッフもいた。

で、ある日、僕にもその作業が回ってきた。

まず利用者さんを車椅子に乗せ、近くの神社まで車椅子を押して連れて行く。ここまでは、スムーズ。問題は帰りだ。

さ、行くよ、と利用者さんの手を取り立たせようと引っ張ると抵抗する。見た目以上に力が強い。何分も、そのやり取りが続く。

で、途中でだんだんと面倒臭さくなりまして。勝手にしろとばかり、利用者さんを、しばらく放置(笑)

で、どうやったら大人しく歩いてくれるかなーって、しばらくその人のことを観察してたんですよ。

そしたらね、すごく嬉しそうなニヤ〜っとした顔で、空や神社の木々を眺めてるわけ。

その様子を見てたら、突然、彼の気持ちが分かった気がしたんですよね。

あー、そうか、この人は、屋外でこうやって、ぼーっとする時間を楽しみたいんだな、と。

考えてみると、この施設に通ってる人達の殆どは、自分一人で外出することが出来ない。

毎朝、保護者に監視されながら連れられて送迎バスの乗車場所まで行き、施設で過ごし、その後、バスに乗って家に帰っていく。その繰り返し。

自分の目の前にいた利用者さんにとっては、1日のうちで、太陽をまともに拝めるのも、鳥の囀りを間近で聴けるのも、ゆったりと風に吹かれるのも、この時間だけ。

そう思うと、なんか気の毒に思えてきた。

それで、どうせ、他のスタッフは往復に2時間もかけてるんだから、できるだけ長く、この場に居させてあげようと、30分くらい神社の境内で過ごすことに。

で、頃合いを見て、『そろそろ戻ろっか』と声をかけると、驚くことに、すくっと立ち上がり、止まることなく歩き続けて3分くらいで施設に戻ってしまった。

往復6分に滞在時間30分含めても、40分くらいで帰って来た僕に、先輩スタッフ達も驚いて、何があったかと聞いてくるので、ことの転末を伝えると、なんか納得してくれたみたいで、それからというもの、みんな神社で30分〜1時間くらい一緒になって、ボケーっとして帰って来る様になった(笑)

もう一つは、別の班に移ってからの話。言葉の話せないある利用者さんを散歩に連れて行った時のこと。

彼は、田んぼの畦道を歩く時、よく止まるということは聞いていた。無理やり歩かせようとすると怒り出すことも。

で、僕の番が回ってきた時に、また観察することに。すると、どうやら水の張った田んぼの水面に反射したキラキラした太陽光の輝きを観てニコニコしているらしい。

ある時は、林の中を散歩していたら、突然立ち止まって、上を見上げニコニコしていた。何だろうと思って僕も見上げると、木漏れ日がキラキラと輝いていた。

その時、すごいショックを覚えた。

自分には、キラキラとした木漏れ日を見て、綺麗だなと思える感性がなかったことに!(笑)

この時のことを振り返ってみると、なんか偉くなるだの、大成するだの、そんなことばかりに気持ちがいってしまって、日常の何気ない喜びを感じる余裕がなかったな、と。

でまあ、この職場での仕事もそれなりに充実はしていたんですが、あまりにも給料が安かったし、日本の中枢へも、一度は辿り着かないわけにはいかないと思っていたので、ここでの仕事は一年半でしたね。

ちょうど、個別運動班にいた時に、一人の研修生が入ってきた。学生ではなく、中年の女性。何やら資格を取る為に、現場経験が必要とかで研修生として来たのだとか。

で、その方が、なんと当時の我孫子市長の奥さんだったわけですよ。我孫子市は伝統的に自民党系の人が市長になるんだけど、この時は、何故か左翼系の人が市長をやっていて社会福祉に力を入れていた。

市長の旦那が、社会福祉を強化する中で、妻であるこの人も、現場を知りたいと思ったので資格を取る為に研修で、僕の働いていた施設に来たらしい。

ところで、僕は毎日の通勤の足は、高一の時に親に買ってもらい、そして、銀行を辞めた時に静岡から持ち帰ったマウンテンバイクだった。

毎日片道30分。と言っても、僕は結構スピードをだすので、普通の人なら、45〜60分くらいの距離だろう。

赤坂で働いていた時は、基本的に朝から晩まで机に座りっぱなしで、半年ほど通ったカポエィラ以外、特に運動もしてなかったので、体力はかなり落ちていた。

それが、片道30分往復60分の自転車エクササイズ、そして、施設では、生活介助で終日肉体労働していたので、年を取ったのに体力は増したという、ちょっと不思議な現象が起こった。

体力の衰えって話になると、年齢を理由に言い訳する人が多いけど、それ以上に、普段の自分の生活環境を考えた方がいい。まあ、今の自分に言ってるようなもんたけど(汗)

あと、この頃はお金はなかったんだけど、田舎だったので、農家の軒先の無人野菜販売機で、新鮮野菜をよく購入した。

試しに人参を生で食べると、甘くてみずみずしくて美味かった。その後、スーパーで人参を買ったが、ものすごく不味く感じた。

僕は赤坂に4年間もいたので、舌はそこそこ肥えていると思ってたけど、この時の経験で思ったのは、腹減ってる時に食べる新鮮野菜ほど美味いものはない、ということだった。この考えは今も変わっていない。

でまあ、話を戻すと、普段は自転車通勤なんだけど、たまたま雨の日に電車に乗って通勤したら、帰りの電車で市長の奥さんと一緒になった。

いろいろと世間話ついでに、僕が我孫子市へ来てからいろんなボランティアに携わったことなどを話していたら、『もし、我孫子の市政に興味がおありでしたら、主人(市長)の講演会があるので、いらしてください』とお誘いを頂いた。

当時の市長の講演に特段興味はなかったのだけど、とにかくお金もなかったし、暇だけはあったので、講演会を見学しに行くことに。

講演会は、市長の講演の後、パネルディスカッションがあって、市議会議員が何人か参加していたのだけど、そこに一人だけ、僕と同い年くらいの若い人が参加していた。

聞けば、地元選出の現役の国会議員の秘書をしてる人だった。当時の市長は、どちらかというと社会福祉に力を入れている社会党系の人だったが、仲の良い市議さんに誘われて、よく分からず参加したらしい(笑)

で、年が近いこともあり、パネルディスカッションの後で声をかけたら、場違いな所に参加してしまったという前置きの後、実は、月の市議会選挙で立候補する予定だが、良かったら選挙を手伝ってくれないかと誘われた。

暇だったし、面白そうだったので、何事も勉強と、手伝うことにした。

僕が応援した人は、奇しくも、僕が入った消防団に選挙事務所を構えていたので、これもまた何かの縁だな、と思った。

選挙事務所に行くと、まあ選挙に積極的に関わる様な人達だから、いろいろと面白い人たちがいた。まあ、だいたいが自分の住んでる地域の道路を舗装してくれだの、損得で関わってる人達だったけど、中には、部落解放同盟なんて団体から来てる怪しげな人もいたりして、あまり深入りしない方が良さそうな気配を感じたので、自分のできる範囲でビラを配ったりして選挙を手伝った。

結果、初めての立候補で、見事当選。

当選が決まった後日、微力ながら手伝った僕を、彼のボスの国会議員含め地元の有志数名で祝勝会をするので、良かったら来てくださいと誘われる。

これで、

☑️地主

☑️政治家

◼️経営者

行くと、市議会議員となった彼と、国会議員の他に、男性2人、女性1人が参加していた。

市議さん以外は、全員はじめまして、だったんだけど、いかにもインテリな感じの人達だった。居合わせた男性一人と女性は、何やら旧約聖書の話で盛り上がっていた。アメリカに6年もいながら、旧約聖書なんて興味も無かったし読んだことなかったのたが、2人は聖書の登場人物の名前まで、よくそこまで覚えいるなと関心するくらい、隅々まで熟知して知性の高さを感じた。

聖書話をしていた男性は、日に焼けてマッチョ、色の入ったメガネと、いかにも怪しげな人だったが、聞けば、お父さんが日銀の理事で、初代のセブン銀行の頭取。

何者?という感じで、話に耳を傾けていると、ちょくちょくJCという言葉が出てくる。

何だろうと思って、『さっきから仰ってるJCって何ですか?』と尋ねると、「僕もあんまり参加してないから、活動について詳しくは説明できないんだけど(笑)」、「まあ、地元の経営者が集まって、地元を盛り上げる為に地域おこしの様なことをやってる団体だよ」

なるほど、経営者か..。

ということで、JC(青年会議所)なる組織に入ることに(笑)

☑️地主

☑️政治家

☑️経営者

こうして、人っこ一人知らない見知らぬ土地で、ファーストミッションは半年でコンプリート。

普段は、身体障がい者の支援施設で働きながら、消防団では、操法大会に出たり、ポンプ車に乗って夜の見回り、火を使う行事があれば、万が一の初期消火要因として参加。

市政には、これといって参加はしなかったが、歴代市長の多くは、JC出身者が多かったので、市政の裏側の情報は逐一入ってきたし、

JCのメンバーは、経営者だけでなく、市議会議員もいたので、一年もすると、我孫子市政に関わる主だった人間関係関係は、おおよそ把握した。

もちろん情報だけあっても、自分で何かしない限り、宝の持ち腐れ。

当時、僕は知り合いからもらった、ジェームズ・スキナーという人の自己啓発CDを毎日聴いていたんだけど、この人は、7つの習慣という大ベストセラー本を日本に広め、自身も成功の9ステップという本を書いていた、ビジネスの成功者。

この人の口癖というか、当時のキャッチフレーズみたいなものが、『でっかいことをやれ』で、僕も何かデカいことをやりたいという気持ちがあったので、我孫子でも、何か出来ないかと考えていた。

しかし、我孫子市のことを知れば知るほど、大きなことをしようとすると、やれ県の許認可だ、国の補助金がどうのという話で、それなら、上から行った方が早いじゃんという気持ちが日に日に強くなっていった。

◉2008年:33歳 

一方、財団では、高齢化が進んでおり、薩摩のドンの紹介という鳴り物入りで入った僕は、若手ホープとして自然と期待される立場にあったし、誰に言われるでもなく、財団の行事を積極的に参加していたので、徐々に財団の中での信頼も得るようになった。

文化祭で、宣誓役をしなさいと言われれば、2つ返事で、はい、やります。先天堂祭という行事では、神主役をやりなさいと言われれば、はい、分かりました。

宣誓なんて、小学生の児童会会長をしていた時に運動会でやらされて以来だったし、神主なんて、何やってるかなんて知りもしない。

修祓、祝詞、何それ?って、感じだったが、財団の先輩方のアドバイスを受けながら、Amazonで祝詞の音声CD付きの本を買って独特の抑揚に耳を鳴らしたり、アパートの近くの田んぼへ言って、祝詞の練習をしたりした。

初めての神主役、運を天に任せる様に務めた。まあ、本職の人が聞いたら、笑っちゃう様な素人祝詞だろうけど、精一杯やった。お陰で、評価は上々で、だんだんとドンの気持ちも掴める様になってきた気がした。

仕事ではお呼びも付かないほどレベルの違う人なのだ。自分が今いる場所で全力を尽くすしかない、そういう気持ちでやっていた。

我孫子市での毎日にも慣れた頃、ドンから、直接声がかかる様になる。

財団の活動は一生懸命やってくれているが、君もいつまでもアルバイトというわけにもいかんだろう。必要なら仕事を紹介してあげるから、そろそろ腰を落ち着けてやれる仕事を見つけなさい、と。

この年、リーマンショックが起こるが、生活に特に影響はなかった。

◉2009年:34歳

ドンから有難い提案を受けた後も迷っていた。確かに、時給900円のバイトでは、毎日の生活は苦しい。

幸い欲しいものも特に無かったが、青年会議所(JC)の活動はボランティアだし、年会費10万円は大きな出費だった。

消防団の飲み会は団費で出してくれたし、僕がお金が無いのを青年会議所メンバーも知っていたから、誘われて飲みに行く時は、いつも誰かが払ってくれた。

それでも、もっと給料が貰えたら生活も楽だろうなぁ、という気持ちもあった。しかし、日本の中枢に行くのが目的地であって、どこかの企業のサラリーマンに落ち着くことではない。

▼親父と。

◉2010年:35歳

ドンからは、具体的な企業名まであげられて、この会社はどうだ、こっちはどうだ、と紹介される様になる。

しかし、『有難いお話ではありますが今はちょっと..』と煮え切らない僕。

最後には、豪を煮やしたドンに一喝された。

『仕事ってのは、思いが大事なんだ!思いが無ければ、何事も成就しないぞ!』と。

財団で信頼を得ていたこともあったので、僕もそろそろ機は熟したかな、と思っていたので、腹を決めてこう返した。

『給料のことは何も言いません。鞄持ちで結構です。あなたの下で働かせてください』

精一杯声を振り絞って、それだけ言うと、妙にさっぱりした気分になった。あとは、どうなるかは運次第だ。まな板の上の鯉とは、こういう心境かと思った。

僕の渾身の訴えを聞いて、ドンは言葉を失っていた。何も言わなかったが、(お前、そんなことを考えていたのか)という顔をしていた。

『そうか、君の気持ちは分かった。少し考えさせて欲しい』。

後戻りできない一歩を踏み出してしまった。あとは、信念を持って前に進むしかない。

いつお呼びがかかってもいい様に、すぐ辞めることになって迷惑をかけないように、障がい者の支援施設は辞めることに。しかし、生活費は稼がないといけない。

そこで、仲の良かったJCの先輩に頼んで、半年だけ働かせて貰うことにした。塗装屋(ペンキ屋)さんの営業マン兼、職人の教育係(笑)

そのペンキ屋さんは、主に公共工事の受注に力を入れていたのだが、年々、条件が厳しくなってきたので、個人宅の塗り替え需要を取り込みたいということで、個人宅担当の営業をすることに。

もちろん、塗装業の知識なんて無い。でも、給料を貰う以上は、稼がないといけない。

しかし、ドブ板営業みたいなこともしたくなかった。そこで、昔取った杵柄で、神田昌典氏の本で学んだダイレクトレスポンスマーケティングを実践。

安くない家の塗り替えを、どうアプローチしたらやりたくなるかを考え、緻密に営業用資料を作り込んだ。僕が、売り込まなくても、資料が僕の代わりに営業をしてくれる様に。

当然、資料を作るのにもコストがかかる。どこに営業をかけるのかは、ペンキ屋の社長であるJCの先輩と相談して、塗り替え需要の高そうな戸建団地に資料を配る。

押し売りはしないと決めていた。資料を読んで興味を持った人の所にだけ、説明に行った。結果、半年しかいなかったが、3ヶ月目に制約一件、その後は一月に2軒ペースで成約した。

もちろん、敏腕営業マンだったら、月に5件10件と成約しただろうけど、言葉は悪いが腰掛け程度で長くいるつもりもなかったし、社長が満足そうだったので、それ以上頑張ることもしなかった。

この半年間で、僕が一番嬉しかったのは、成約を取れたこと以上に、ある塗装会社での研修で、ザ・シークレットというDVDを観たことだった。ザ・シークレットは、今でこそ当たり前に使われる引き寄せの法則を世に広めたドキュメンタリー番組だ。

僕は既に、自己啓発本を(大袈裟な話ではなく)100冊近く読み漁った経験があって、マーフィーの法則だとか、デール・カーネギーの思考は現実化するだとかを知っていたから、全てにおいて目新しい情報ではなかったのだけど、1箇所、(正確ではないが)『自分が実現したいことで、自分にとって、とてつもなく大きいことだと思っていても、宇宙の大きさに比べたらそれは小さなことで、実現に必ずしも時間がかかるわけではない』というフレーズ。

当時の僕にとって、ドンの所で働くことは、とてつもなく大きな夢で、その為にできる限りの努力もしたし、行動もしてきたつもりだった。でも、本当に働けるようになるのかどうかは分からなかったし、不安な気持ちもあった。

しかし、ザ・シークレットを観て、心配したり不安を覚える必要はなく、ただ信じてさえいればいいと思えた。

ペンキ屋社長のJC先輩からは、半年を迎える時期に、残って欲しいと言われたが、僕は、そろそろドンからお呼びがかかる気がしていたので、当初の約束通り半年で辞めさせてもらった。

振り返ってみれば、あっという間だったが、それから、約3ヶ月ほど、何の音沙汰もなく、我孫子の安アパートを引き払い、父親の実家のあった豊島区要町の家に転がり込んだ時には、財布に50円しかなかった(笑)

実は、ペンキ屋で働き始めてすぐ、別のJCの先輩が、要らなくなったジムニーを無料でくれた。かなり使い古された車だったので、遠出をしたりはしなかったし、殆ど、営業車として使っていたんだけど、親父の実家に荷物を移動ささる時には役に立った。この車は、引越しの際に処分したのだが、引き取ってくれた車屋さんは、ペンキ屋の社長が紹介してくれた。

さて、アパートの中を空にして、不動産屋に鍵を返し、財布の中には50円しかない。車も処分したので、移動は当然、愛車のマウンテンバイクだ。

我孫子市から、都内まで約40km。まだ暑さの残る9月に短パン・Tシャツにベースボールキャップという出立ちで、豊島区要町にあった親父の実家に向かう。

おおよその道は、頭に入れていたが、途中で道を間違え、気付くと霞ヶ関に来ていた。

短パンにTシャツ姿の僕以外は、みんなスーツ姿。全国から秀才の集まる霞ヶ関。誰が見ても場違いな僕は、とある省庁(外務省)の前で自転車を止めて建物に目をやる。

そういえばドンは、官僚と会う機会が多いって言ってたけど、僕もいつかは、この建物の中に入ることがあるのかなぁ。羨望の眼差しで敷地内を覗き込む。

親父の実家に居候してから数日後、ドンから呼び出しがかかる。

当時、代々木(後に港区赤坂)にあったオフィスへ向かうと、『事務所を閉めようかどうか迷っていたんだけど、僕も人から頼まれごとがまだまだあるので、君を雇うことにしたよ』と、辞令の紙を渡された。

不思議とこの時のこと、特に自分の感情を思い出せない。恐らく、天にも昇る心地だったに違いないが、それまでの苦労を噛み締めながら、同時に、これからのことで身の引き締まる思いがあって、喜びに浸ってる気分ではなかったのかもしれない。

この年の11月から正式採用。代々木にあったオフィスに通うことになったのだが、それに伴い、手狭な親父の実家を出て、代々木まで都営新宿線一本で行ける江戸川区瑞江という駅の近くにアパートを借りた。

後から知ったのだが、ドン(以下ボス)が鹿児島から上京して最初にした仕事は、瑞江小学校の教員だったらしい。

ボスの事務所に在籍中のことは、当時使っていた手帳を後に捨ててしまったり、パソコンに残しておいたデータがある日丸ごと消えていたりして、時系列がかなり曖昧。

正直なところ、業務上知り得た情報も、ここには書けないことが多い。書けないというより、書かない方がいいという感じかな。

僕は自分の身の守り方を知ってるけど、そうじゃない人が、僕の見てきた諸々の裏の世界の話を聞いたところで、あまり役には立たないし、場合によっては危険でさえある。

それに、僕自身、もう△社会からはおさらばすると決めているので、いまさら暴露話をすることに価値を見出せない。

ということで、具体的な仕事の内容は問題の無さそうな範囲でしか書かないけど、仕事を通じて見聞きした世界についての所感、仕事以外での活動についてだけ記しておきたい。

事務所に入って最初の仕事は、事務所の顧問をしていた元野村證券のおっさんについて事務所の維持費を捻出する為に、とあるマスクメーカーの営業を手伝うことでした。

その年は、鳥インフルエンザ大流行の年で、奇しくも、邦画、感染列島が映画館で上映された年でした(笑)

僕は顧問について、JR東海などの大手企業を回りましたが、当時は、感染症が危険だとか、マスクが必須と思っていたのは、感染症の研究者やマスクメーカーの人間といった一部の関係者だけで、世間一般的には、あまり危機感はなかったですね。

しかし、これが後のコロナ茶番の為の布石(潜在意識への刷り込み)だったとしたら、ある意味、用意周到すぎて、すごいですよね。まあ、ロングスパンで考える支配者なら、これくらいは考えるということですな。

当時、マスクの営業に携わりながら思ったことは、感染症が広まったら困るけど、何もなければマスクは売れないし、特殊なマスクだったので、このメーカー潰れるなぁ、ということです。

この時の経験もあり、後にコロナ騒動が始まっても、その初期の頃から、医療品業界の利権だと言い切ることができました。

一方、金稼ぎの仕事とは別のもう一つの仕事、それが、ボスが主宰の官僚の会の事務局業務。

一つは、鹿児島というか、旧薩摩藩である鹿児島と宮﨑(厳密には、薩摩、大隅、日向の三洲)出身の官僚と、官僚を支える民間エリートの会

もう一つは、現役事務次官と事務次官OBの会。

話には聞いていたが、各省の事務方トップが一堂に会する会というものが、正直イメージできていなかった。

僕がボスの所に勤め始めて最初に開かれた会が、事務次官OBの会。主に旧大蔵省の事務次官経験者が集まる。場所は、法務省の敷地内にある法曹会館。時は、自民党政権が敗れ、野党であった民主党の政権が発足し、官僚がやたらと目の敵にされていた時期。

会場は、厳かというか、どこかピリピリした雰囲気があった。

この時、参加者の一人が、「今、起きているのは権力闘争だ」という様な発言をされていたのが記憶に残っている。

日本人同士の権力闘争という意味だったのか、諸外国も含めた権力闘争という意味だったのかは、分からない。

しかし、その権力闘争という言葉が発せられた時、相手が誰であれ、その場に居合わせた人々の”権力”の為の”闘争”という風に聞こえた。

国の行政を預かる官僚トップの発言に、民主党政権に変わることで国民生活が受けうる影響を心配しているというニュアンスは伝わって来なかった。

そして、その後、開かれた現役事務次官の懇談会。民主党政権下で危機感を持った各省トップが集まった。来なかったのは、その日ロシア空軍機が領空侵犯した為、その対応で来れなかった防衛省の事務次官と、インフルエンザに罹患した文科省の事務次官のみ。警察庁の長官すら来ていた。後にも先にも、これだけ集まったのは、この時だけかもしれない。

この年、ボスの付き添いで、ある高野山の坊さんの勉強会に参加することになりました。

彼は鹿児島の出身で、炎の行者として知られ、100万枚護摩行という荒業を何度も成し遂げたことで有名な人でした。

当時から清原などの有名な野球選手なども行に参加してましたから、テレビなどのメディアでも度々取り上げられる、ちょっとした有名人でした。

勉強会は、前半は時事問題のお話、後半はお大師さま(弘法大師空海)や密教のお話でした。

当時の僕にとって、時事問題の話は退屈でしたが、空海や密教の話は初めて耳にする話も多く、興味深いものがありました。

例えば、明治時代に入ってからもしばらくは、熊本と鹿児島の間で、呪詛の掛け合いをしていたとか、呪詛をかけているのがバレると呪詛返しといって呪いが自分に返ってくるとか。

とにかく、全然仏教じゃないんです。繰り返し出て来るのは、とにかく弘法大師空海であって、ブッダのブの字も出ない。まあ、高野山は真言密教と謳ってますからね。

じゃあ、空海と同じく密教を極めようとしていた比叡山天台宗はどうかといえば、これも密教。そして、日本の仏教界と呼ばれる諸宗派は、殆ど比叡山をから出た僧が興してますから、日本仏教は仏教ではなく密教であると僕が思い始めたのは、この頃から。

この年、丸谷さんという、一人の青年が事務所を訪ねてきました。彼は、パプア・ニューギニアと日本を繋ぐという夢に燃えていました。

パプア・ニューギニアは、シーレーン(海上輸送経路)の要所であり、ここを隣国に抑えられてしまうと、途端に日本に物資が入らなくなってしまう。そして、パプア・ニューギニアには、金、銅、レアメタル、肥沃な大地では、四毛作が出来、日本に必要なものは、パプア・ニューギニアで賄えるというのが、彼の主張でした。

年が僕の一つ上ということもあり、意気投合。週に3度は、彼の家族のいる自宅で、食事を頂きました。

丸谷さんの武勇伝はとにかく面白くて、中でも、パプア・ニューギニアで出会った人達の話が面白かった。

そもそも彼がパプア・ニューギニアで仕事を始めたきっかけは、オーストラリア国立大学で政治学を専攻し、卒業後、日本に帰ってから通訳・翻訳の仕事をしていたが、家族を食べさせて行くには十分でなかった為、ある商社の面接を受け、内定を貰う。

そして、これが最後の通訳の仕事だ、防衛大の教授のついて行った先が、パプア・ニューギニアだった。意外と知らない人が多いのだがらパプア・ニューギニアは、第二次大戦時、オーストラリアの戦いで、日本兵約20万人が命を落とすという大激戦地。

今も日本の兵隊さんの亡き骸が、パプアのジャングルのあちこちに散らばっているらしい。

丸谷さんが初めてパプアを訪れた時、パプア・ニューギニアの地元の人達は、日本兵の亡き骸を見る度、丁寧に埋葬してくれているという話を聞いてパプアの人達にいたく感動し、日本ではあまり知られていない、このパプア・ニューギニアという親日国と日本を繋ぐ仕事をしようと決意する。

でまあ、それで、商社の内定を断り、家族を日本に残して単身、パプア・ニューギニアに乗り込み、タクシー会社やノニジュースを経営する傍ら、オーストラリア軍と日本軍の戦いを描いた『Beyond Kokoda』というドキュメンタリー映画を撮り、見事、オーストラリアで賞を受賞している。

ところで、パプア・ニューギニアは、1975年にオーストラリアから独立した独立国家であるが、未だに、大英連邦の一員である。

そして、昔から、オーストラリアの白人によって、パプアの現地民は、奴隷の様な扱いを受けてきた。

ではなぜ、パプア・ニューギニアの人達は、日本兵の亡き骸を丁重に扱ったのか。それは、日本兵がパプア・ニューギニアでオーストラリアと戦った時、腹を空かせた日本兵にパプアの人々が、タロ芋などの地元料理で提供したのだが、現地民を下等民族として見下すことしかしなかったオーストラリア人と違い、日本兵は共に地べたに座り、地元民の食べ物を美味しい、美味しいといって食べたというのだ。

自分達が「マスター」と呼んで、決して逆らえないオーストラリアの白人相手に勇敢に戦っている彼らは、自分達のことを同じ人間として扱ってくれた。そういって、親日家となったパプア・ニューギニア人は多い。

特に独立時の初代総理大臣のソマレ首相はじめ、現地民のエリート層は、学生時代に日本で学んだ人も多い。だから、日本ではあまり知られていないのだが、意外に親日家が多い国なのだ。

しかし、当の日本はというと、戦後しばらくは、木材業関係者など、一部の日本人が首都ポートモレスビーに拠点を構えてビジネスをしていたものの、日本の経済成長と共に日本国内の仕事も増え、日本人の収入増加にともない、わざわざ危険地帯へ行く必要もなくなり、オーストラリアからパプアが独立して、国の政治が混乱を極めると、邦人会社は、一斉にパプア・ニューギニアから撤退した。

そして、その後に入ってきたのが中国だ。中国のやり方はえげつない。まず、中国国内で囚人だった連中をコンテナに入れてパプアに連れて来て、野に放す。

連れて来られた囚人達は、パプアのあちこちに広がり、現地人との間に揉め事を起こす。窃盗、殺人、麻薬、売春、マネロンなどなど、悪事のかぎりを尽くす。エイズ、コレラ、マラリアなどの感染症がパプア・ニューギニアで広まったのも、中国から送られてきた囚人がパプアに来てからだという。

これはかつて、イギリスがオーストラリアを占領した際のやり口だから、イギリスもオーストラリアも、自分達の庭で中国に暴れられても文句も言えない。

おまけに、この頃は既に、中国が経済力をつけてきた時代で、中国資本にるオーストラリアの政治家の買収や、オーストラリア軍の軍人が中国企業にヘッドハンティングされる様なことが相次いだ。

危機感を強めたのが、アメリカだ。太平洋に面するパプア・ニューギニアに中国の拠点でも作られて、太平洋で好き勝手やられたら、世界一の大国としての沽券に関わるどころの騒ぎではなく、米国の安全をも脅かす事態になる。

ということで、当時の国務長官?だったヒラリー・クリントンが、アメリカの海兵隊2,000人を引き連れ、オーストラリア北部に駐屯させたという事態にまで発展していた。

一方、日本はというと、日本の南に飛行機で6時間という好立地にある、この親日国家に対して、何もできないでいた。というのは、パプア・ニューギニアは独立国とはいえ、大英連邦の一員という認識があり、オーストラリアに相談もなく、勝手に進出は出来なかった。

ちなみに、遺骨収集の担当省庁は、厚労省だったが、危険なパプア・ニューギニアに来る職員などいなかった。当然、自衛隊は入れなかった。

ここで、丸谷さんから聞いたエピソードを一つ披露。

丸谷さんがパプア・ニューギニアで事業をしていた頃、仲良くしていたパプア・ニューギニア人で大地主のレーンさんという女性から、シンガポールで会わないかとの連絡があった。

何だろうと思って丸谷さんが行ってみると、見知らぬ若い白人男性が一人同席している。レーン女史との話も終わった後、その男性から、僕の部屋で一杯飲まないか、と誘われる。

その男が泊まっているというホテルについて行き、ドアを開け一歩中に入ると、そこには、ビリヤードのテーブルがあり、その上にはパプア・ニューギニアの地図が広げてあり、ピンが何本も刺してあった。

これは、パプア・ニューギニアの鉱区図だなと、すぐに察知した丸谷さん。

次の瞬間、奥から年配の男性がやって来て、丸谷さんを連れて来た若者を怒鳴り散らす。

「おまえは、ここがどこだか分かってるのか!誰だ、こいつは!誰を連れて来た!とっとと連れ出せ!」と。

これはまずいところに連れて来られたな、と思って横に立っている若者に目をやると、怒鳴られているにも関わらず涼しい顔をしている。

つまり、「ここは、俺たちの領土だ。お前たちジャップが自由に立ち回っていい場所じゃない。出て行け」というメッセージ。

恐らく彼らはMI6の連中だつただろう、と丸谷さんは語っていた。

そして、パプア・ニューギニアへの視察旅行へと行くことになったのですが、ボスが『鉱物資源をただ求めて行けば、単なる利権目当てになってしまう。一つ、現地の人が困っていることをまず解決してあげよう』と言うので、感染症の研究をされていた大学教授らを引き連れて、当時のパプア・ニューギニアで問題となっていたエイズ、コレラ、マラリアの実態について、調査に行くことになりました。

日本にあるパプア・ニューギニア大使館で。ボスとソマレ元首相と丸谷さん

現地では、政府の要人や、華僑の有力者、日本大使館、JICAのオフィスなどを訪ねました。

当時、世界一治安の悪い街と言われた首都ポートモレスビーをはじめ、パプア・ニューギニア全土で、凶悪犯罪が日常的に起こってましたので、我々一向をアテンドした丸谷さんも、常にグロックという連射式拳銃を携行しながらの移動でした。

それにしても、慣れとは怖いもので、本当に夢のまた夢と思っていた日本の中枢へたどり着くやいなや、丸谷さんとの出会いで、海外のいろいろな話を耳にするにつけ、次は世界の中枢に行くなどと、思い始めたのである。

富士山の頂上とは言わないまでも、八合目くらいの景色は見えた。いずれ頂上にも辿り着くだろう。そしたら、きっと、もっと高い所を目指すよな。だったら、今からエベレストの頂上を目指そう、ってなもんで。

◉2011年:36歳

この年の3月11日。東日本大震災がありました。僕はその時、代々木のオフィスにいたのですが、ペンシルビルだったので、最上階にあったオフィスは、書類が散乱したり、書棚のガラスが割れるほどに揺れました。

パプア・ニューギニアの計画は、帰国後に、同行して貰った大学教授達から、感染症対策として政府に対して予算申請して貰いましたが、なかなかことが動きません。中央に強力なコネクションを持たない地方大学の教授には、あまり権限がない事を実感しました。

それどころか、パプア・ニューギニア政府から、今、日本が大変な時に、こちらを気遣って貰って申し訳ない。どうぞ、日本の復興に注力してください、との連絡が入った為、棚上げとなってしまう。

パプア・ニューギニアは、独立国だけれども、大英連邦に属している為、どこかから横槍が入ったのかもしれない。

そして、仕事は復興関連の事業一辺倒になりました。よく訪れたのは、復興庁と環境省。

元野村證券マンの顧問によって、事務所に持ち込まれる案件は、どこも中小零細企業ばかりでしたが、製品自体は実績のある素晴らしい製品がいくつかありました。

しかし、省庁を回っていて感じたのは、中小企業では、相手にされないということです。

結局、国が予算を付けるような事業の受け手は、経団連に所属していら様な大企業に限られます。

これは何も、政府と大企業の癒着があるという話ばかりではなく、実際に、大規模の事業となると、中小零細企業では、人手の面や経験値からして、受け皿としては不十分であるということです。

霞ヶ関の役人も暇ではありませんので、任せると決まったら、受け皿の企業の方で確実に進めて欲しいわけです。

もちろん、将来的に天下りできる規模の企業かどうか、天下りしたいと思える内容の企業であるかという官僚な損得勘定も働いているでしょう。

しかし、△社会の中の経済的合理性に準拠して選べば、中小企業より大企業となるわけです。

だから仕方がないという話ではなく、この社会のシステムがそうさせているので、嫌なら、そのシステムから離れるしかないということですね。

さて、話変わって鹿児島の話。

僕のボスは、先述の通り、鹿児島県の出身。僕の母方の祖父が鹿児島出身だったこともあり、僕にとって鹿児島は縁のある土地。

とはいえ、祖父の家族は、祖父が幼少の頃に上京しており、曽祖父が長男でなかったこともあり、訪ねる墓も無ければ、鹿児島に親戚がいるという話を聞いたこともなかった。

一方、ボスが主宰の鹿児島エリートの会に事務局として参加した僕は、すぐさま鹿児島に住んだこともなければ、行ったことすらない、全く無知、鹿児島について何も語れないというコンプレックスを抱えることになる。

まあ、今にして思えば、気にするほどのことではなかったんだけど、当時の僕は、エリート集団に囲まれて、いろいろと気負うところもあり、拠り所となる何かを求めていた。

そんな折、父親の実家を訪ねると、司馬遼太郎の坂の上の雲と、龍馬が行くの全巻セットを見つける。

鹿児島といえば、明治維新の立役者。そして、龍馬もだ。鹿児島関係の人に囲まれて仕事をする以上、これくらいは読んでおかねば、と思い、自分のアパートに持ち帰って読むことにした。

今(2023何3月現在)でこそ、明治維新は天皇と薩長がヨーロッパの銀行家を後ろ盾に仕組んだクーデターだと思っているが、その当時はまだ、天皇万歳、明治維新万歳と無邪気に思ってた時期である。

どちらの本もハマった。

しかし、一番ハマったのは、龍馬が行くに出てきた剣術家達のかっこよさである。奇しくも、その頃は、漫画バカボンドや、NHK大河ドラマで宮本武蔵を持ち上げていた時期で、中学の体育の授業で何回か剣道をやった経験しかなかったが、無性に剣術がやりたくなった。

剣術カッコいいなぁ、やりたいなぁ、なんて思っていたある日、鹿児島エリートの会の事務局長さんから、『薬丸野太刀自顕流って知ってる?』と聞かれ、知らないと答えると、『薩摩の剣術で、僕が顧問をやってる道場があるんだけど、興味ある?』と聞かれた。

うーん、また引き寄せてしまったか、とニヤニヤしながら、参加させて貰うことに。

でまあ、とにかく行ってみたわけですよ。わりと球技は得意だったんだけど、剣術は初めてで、剣道とどう違うんだろ、なんていうレベル(ちなみに剣道はスポーツ、剣術は人を殺める術というのが僕の理解。別に剣道を下に見ているわけではありませんので悪しからず)。

そして、剣術、しかも、薬丸野太刀自顕流というマニアックなところへたどり着く人は、鹿児島関係者か、超オタクレベルの武道バカ(良い意味で)。

僕も体験で稽古を受けたのだが、『君、武術のセンス無いよ』と言われてしまう(余談だが、この台詞を言った先輩が後に一番仲良くなった人で、剣術を辞めても唯一付き合いのある人)。

しかし、こちとら、人生背負って、自顕流やっとんじゃーい、と言葉にこそ出さなかったが、そういう静かな闘志はあった(笑)

僕は自分で言うのもなんだけど、不器用なスローラーナーなんです。スタートは遅い。しかし、後半から追い上げるタイプ(笑)

自顕流もね、サッカーやカポエィラと同じだと思っていたので、徹底的にイメトレしましたね。他の人は、週に一回の稽古しかしてないけど、こちとら、毎日YouTube動画観てイメトレ積んでますから(笑)3ヶ月で、その道場の若手のエースと言われるまでに成長しましたよ(笑)

イメトレと同時に、稽古に臨む態度ね。鹿児島関係の人は、まあ、一つの鹿児島文化の保存目的としてやってる様なお爺ちゃんが多かったね。あとは、健康の為の運動。武道として取り組んでる人も多かったかな。形とか細かいところ研究したりね。

翻って僕はというと、剣術とは人を殺める術である。そのつもりでやらねば真髄は分かるはずもない、と、一人違う次元で稽古に臨んでましたから、はっきり言って、気合が違うわけですよ。

お陰で身体壊しましたけどね(笑) やっぱね、人生30年時代で戦争に明け暮れてた人達のやることを、ひ弱な現代人が真似しようとしちゃダメですよ(笑)

とにかく、実戦を意識してやってましたね。スポーツでも武道でもない剣術として。

薬丸野太刀自顕流って、剣術としては、ちょっと異色なんですよね。

一度、道場の人達と参加者として古武道の大会を観に行ったことがあるんですが、他の古武道って、なんというか厳かな感じなんですよね。言い方悪いけど、ずっと観ていて眠たくなるほど静か。

一方、薬丸野太刀自顕流は、とにかく賑やかというか、こんなこと言うと怒られるかなと思うけど、ハッキリ言ってやかましい(笑)

でも、うるさいのにも、ちゃんと合理的な理由があって、そもそも、名前からして、野太刀ですから、野戦を想定した剣術なんですよね。

一度戦となれば、男か女、大人か子ども、武士か平民かの区別もなくやられる可能性がある。

伝統的に農業国の薩摩は、下級武士なんかは、普段は農業に従事していたりもする。そんな時、旧に敵が攻めてきたら、「あ、ちょっと待って、刀取ってくるから」というわけにもいない。

だから、稽古は、打ち棒と呼ばれる、ユスノキなんかの固い木の枝葉を取り除いただけの棒を、ひたすら打ち続けるという、その名も続け打ちが稽古の基本。

そして、技の少なさ、単純さ。

刀を差している場合は、抜きざまに下から切り上げる、そして、一度刀を抜いたら、後はとんぼの構えと言われる左右からの袈裟斬りのみ。

これは実戦を想像してみると分かるのだけど、戦とならば、歴戦練磨の達人だけでなく、初めて戦場に立つ若者や、戦に駆り出された農民もいる。そんな戦の素人に小難しい技をいくつ教えても、実戦では役に立たない。

なので、一刀両断、一刀入魂で、外したら自分が死ぬと思えと脅かしつつ、一太刀に意識を集中させる。

そして、ビビったり、緊張したままでは、身体も思うように動かないので、猿叫(えんきょう)といって、鶏を絞め殺した時の様な雄叫びをあげさせる。これは、自ら気合いを入れて、アドレナリン全開になる為。

そして、かかり稽古と呼ばれる連携プレー。これは一人が走りながら太刀を振るった後、すかさず、次の人が同じ様に走りながら斬り込むという稽古。

一太刀を外したら死ぬと思えと言ったかと思えば、お前の背中は俺が預かるから、心配せずに目の前の敵を斬れ、という。

あとは、1対複数を想定した稽古があるんだけど、とにかく野戦で生き延びる為に、どうあるべきかを突き詰めて考えられた剣術が、薬丸野太刀自顕流、だと僕は思う。

よく間違われるのが、示すに現れると書く、もう一つの示現流(じげんりゅう)。名前としては、こちらの方がメジャー感があるけど、薬丸野太刀自顕流が主に下士(下級武士)がやっていたのに対して、こちらは上士がやっていた、別名、東郷示現流。

違いはというと、薬丸野太刀自顕流が野戦を想定しているのに対し、東郷示現流は城内などの狭い場所を想定していて、続け打ちも、自顕流が地面に対して水平に置かれた木を叩く一方、示現流は垂直に立てられた棒を叩く。

稽古に臨む姿勢は、示現流の方がマニアックで、敵が急に攻めてきたら服を着替える暇もなという想定のもと、道着にすら着替えずに、普段着のままやる(笑)

この平和な時代にそこまでやらんでもと僕ですら思うけど、僕の自顕流とは、剣道でもスポーツでもなく、人を殺める術ですよ、なんて考えも、相当に時代錯誤だよね(笑)

まあ、熱を入れて剣術を語ってしまったけど、あくまでも思い出話です(笑)

とにかく、2年足らずでしたが、鹿児島に昇段試験を受けに行ったりもしましたし、鹿児島文化に馴染むべく、自分なりに一生懸命稽古をしておりました。

あと、この年、鹿児島エリート集団の予備軍と呼ばれる若手官僚や若手財界人と知り合いました。 

ボスの鹿児島エリートの会は、いわゆる鹿児島の名士の会なので、一般的な鹿児島県人会とは、ちょっと違う、敷居の高い会でした。

当然、会の中にあっても、会における礼節みたいなものがあって、若手エリート達もお偉いさんを前に、出会った頃は、すごく萎縮してました(僕もですが)。

ただ、僕は、ボスについて、各省の事務次官室に何度も出入りしているうちに、感覚が麻痺してきまして。鹿児島エリートの会に出ても、あんまり恐縮することがなくなっていきました。慣れって怖い(笑)

でまあ、せっかく同年代の連中と知り合えたのに、お偉いさんの前で畏まってばかりいて、つまらないなと思って、何人か誘って飲み会をやりました。

で、お偉方の前では借りてきた猫みたいに大人しくしていた連中も、お酒が進むにつれ、だんだんと本音が出る様になり、最後は全員ヘベレケになって解散!という伝説の飲み会となりました。僕も記憶飛んでるし、テーブルにゲロっちょして突っ伏してる奴までいた(笑)。

以来、事あるごとに僕が飲み会を主催し、若手エリート達と打ち解ける一方、お偉方達の会の情報も教えてあげたので、本会の集まりにも、若手が積極的に参加する様になり、世代を超えた交流が進んだ様に思います。

まあ、自分の手柄みたいに言ってますが、僕はただ飲み友達が欲しかっただけなんですけどね(笑)

この頃は、とにかく鹿児島料理のお店によく行ってましたね。鹿児島関係者以外と行くこともありましたし、行きつけのお店なんかは、女将さんやらスタッフの人とも仲が良かったので、一人で行くことも多々りました。

もちろん鹿児島で酒といえば、芋焼酎、そして、お湯割り。この頃の僕の口癖は、僕の血液の8割が芋焼酎、というほど飲んでましたね。

やはり、酒はその土地の料理と一緒に呑むのが美味しいですよね。芋焼酎もかなり飲みましたが、鹿児島料理もかなり食べましたね。

鹿児島料理で代表的なものといえば、つけ揚げ(薩摩揚げ)、鳥刺し、きびなごの天ぷらや刺身、さつま芋の天ぷら、ガネ。美味しかったなぁ。

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最後までお読みいただき、ありがとうございます。以下、僕がやっているYouTubeチャンネルの紹介です。

やっていて楽しいと思えることを動画にしました。良かったら覗いてみてください。仲間募集中(笑)

▼ブッシュクラフトやウッドクラフトや川遊びなど、自然の中で遊ぶ

https://youtube.com/@user-gg2yr3mu8x

▼菜食中心の食生活をしています。日頃の食事を美味しくする為の工夫を発信・共有していきたいです。

https://youtube.com/@user-zd2ny1ye6j

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