◉1988年:13歳
汐路中学校に進学。汐路小学校は一学年180人くらいだったが、汐路中学校はお隣の陽明小学校の卒業生も通ってくるので、生徒数は一気に倍になった。
ちなみに、お隣の陽明学区は、トヨタの社長の家がある様なお金持ち地域。お金持ちの家の子はだいたい中学受験して、中高大学一貫校に行くか、エリートの子は東海中学→東海高校と進学し、名大とか東京の有名大学に進学する感じだった。
今はどうなのか知らないけど、当時の名古屋は比較的、公立高校のレベルが高かったから、あえて公立中学校に進学して公立高校を目指すお金持ちの家の子もいたと思うのだが、汐路中学校にも(家にテニスコートがある様な)お金持ちのお子さまも通っていた。
だからかは分からないが、陽明小学校から来た男子には、早熟な奴が多かったな。僕は小学生時代はサッカー以外全く興味なかったから、音楽とか映画とか全く知識が無くて、洋楽や洋画の世界は彼らから教えてもらうことが多かった。
なんとなくの記憶だけど、洋楽との最初の出会いは、ビートルズや、映画スタンドバイミーの挿入歌のアルバムに収録されていた様なオールデイズと呼ばれるジャンルだった気がする。
実は、9歳年の離れた姉が洋楽ファンで、ジャーニーやらデフレパード?なんかをよく聴いてた。僕は全く興味はなかったけど、耳にはしてた。でも、音楽を人に勧められて聴いたのはそれが中学生になってから。
元々勉強は好きではなかったが、小学校の時は受験勉強の為に家庭教師がついていたし、内容もさほど難しくなかったので、成績も特に悪くはなかった。
が、中学に入ってからは、だんだん勉強に対して苦手意識が出てきた。かといって塾に通いたいとも思わなかった。独学では自信がなかったのと、親に勉強してるポーズだけは見せておこうと思って通信教育の教材は取ってもらってたけど、結局やらなかった(笑)
中学生になると誰もが高校受験を意識し始める。今まであまり真剣に勉強をしてこなかった奴らまで、塾通いし始めて、だんだんと周りに取り残されていくような感覚もあった。
さて、サッカーの方はというと、名古屋市3位の栄光を勝ち取った時のサッカー仲間は、中学に入ると、ハンドボール部やバスケ部に消えてしまった。
中学のサッカー部の顧問は、気に入らないことがあると、すぐにキレて暴力をふるう最悪の顧問で、サッカー部には属したが、サッカー部の練習は楽しくなくなった。途中で暴力顧問は変わったが、その跡を継いだ顧問も、あんまりサッカーに詳しい人ではなかった(PumaのバッタもんのPunchのTシャツを着ていたのでパンチというあだ名だった)ので、サッカー部には3年在籍したけど、面白くはなかったな。
小学四年生から通っている昭和FCでの練習は、遠くからわざわざ通って来るほどのサッカー好きだから、レベルも高くて面白かった。
夕方から夜にかけての練習だったけど、よく帰りにカップヌードルとかペヤングソース焼きそばとか買い食いして帰ったなぁ(笑)ちなみに我が家では、健康フェチの母親が、食べるものにうるさく、チップス類、コーラなどの炭酸飲料類、カップラーメン系はご法度だったんだけど、親のいないところで、気兼ねなく食べたカップ麺は美味かったな(笑)
生活の中心だったサッカー熱が徐々に冷めていって、人生の歯車が上手く回らなくなり始めた感じだった。
そして、だんだんとサッカー以外のことに興味を持ち始める。
小学生の時は、音楽といえば親父の演歌のテープくらいしか聴いてなかったが、先述した通り、クラスメイトや姉の影響で、洋楽ロックや邦楽ロックを聴き始める。
また、サッカーにのめり込んでいた小学生の時は、生活の全てをサッカーに捧げていたので、ジャージ着てれば上等という感じだったが、中学生になって、サッカー熱が徐々に冷め始め、思春期で異性を意識し始めたことも相まって、ファッションに多少興味を持ち始める。
よく通ったお店。
▼プレストン〜PRESTON〜
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当時はアメカジブームダッタから、ノースフェイスのマウンテンパーカーとか買ってたな。
あと、この年、苦手な水泳を克服するために、夏休みにクラスメイトを誘って毎日のように市営のプールへ行って鬼ごっこをした。そうしているうちに自然と泳ぎが身について、水泳コンプレックスも自然と消えた。
◉1989年:14歳 サッカー部もつまらない。勉強するのも辛い。行き場のない中学生の情熱はこの年、プラモデルに向かう(笑)
ガンダムからタミヤの模型まで。ジオラマまで作っていた。エアガンもこの頃ハマったな。サッカー部の時にはおよそ付き合いのなかったプラモ・オタクともよく遊ぶ様になった。
まだ、どっぷりと東西冷戦時代の西側のプロパガンダに浸かっていた頃。当時好きだった俳優は、シルベスター・スタローンと、アーノルド・シュワルツネッガー。スタローンはランボーやロッキーが有名。シュワルツネッガーは、コマンドー、プレデター、ターミネーターで有名だった。
この頃、クラスに好きな女子はいたと思うのだけど、まだ格好つけることを覚えたての頃で、そこまで異性を意識はしていなかったかな。
ところが、こちらにその気がなくとも、僕なんかに興味を持ってくれる有難い女子もいたわけですよ。
そんな女子の一人に、よく声をかけてくれた一つ上の女の先輩がいた。
すごく可愛い先輩だったんだけど、彼女の彼氏というのが、サッカー部で仲良かった先輩だったので、僕にとっては、兄貴の彼女みたいな感じで仲良くしてたんだけど。
何がどう運んだのか分からないけど、彼女との関係を誤解されたらしく、ある日、下校しようと思ったら、学校の門の前でバットや竹刀を持ったヤンキー10人くらいに囲まれる。
自分が何故ヤンキーに囲まれているのか理由は分からなかったが、僕の名前を呼んで呼び止めてきたので、どうやら僕が標的らしいことは分かり、さすがにこらはヤバいんではないか?と思う。
結局、先輩と先輩の彼女が間に入ってくれたお陰で、ヤンキースの誤解だったことが判明し、ことなきを得るのだが、あの時はマジで怖かったな。
そういえば、隣の学区にあったプラモデル屋に行った時、ヤンキーの集団に目をつけられ追いかけられたこともある。
今にして思えば、中学校に入ってから、ろくでなしブルースとか、多古西応援団といったヤンキー漫画を読んでたから、そういう現実を引き寄せたのかも(笑)
中学2年生の夏休みに、母方の叔父のいたカリフォルニアへ旅行。父と僕、従兄妹の4人でアメリカへ行き、現地で叔父と合流。ロスやサンフランシスコへ行った。
スタンドバイミーとか好きだったし、アメカジブームで、リーバイスとかLEEのジーンズを履き始めた頃だったから、アメリカへ行けたことは嬉しかったんだけど、時差ぼけ酷くて車での移動中はほとんど寝てたし、おまけに異国の地で、人生で初めて目にする頼りない父に猛烈に腹が立って、大喧嘩。切ない思い出の旅となった。
◉1990年:15歳
小4から通い続けた昭和FCで、サッカーのクラブチーム全国大会へ出場。会場は長野県の白馬。腰痛持ちだったので、大して活躍もできず、不甲斐ない思い出だけが残る。
この年、一個下の陸上部の高跳び選手だった女の子に初恋。うん、たぶんあれは初恋って言うのだろう。運動場でいつも顔を合わすのだが、結局恥ずかしくて卒業式まで話せなかったんだけど(笑)
卒業式の後、僕のところに来て、制服のボタンくださいって言われてたんだけど、第二ボタンは同級生の女の子が欲しいと言うので渡してしまった後で、残りのボタンを全部あげた(笑)
初恋の彼女とは、大学時代に共通の友人を通じて何回か会ったが、その頃僕はアメリカ帰り、あちらは某有名女子大学生ということで、お互い中学校の頃の様なウブな少年少女ではなくなってたなぁ(笑)
名古屋は、公立高校のレベルが高く、私立に比べてお金もかからないので、近くの公立高校にでも入れれば良かったのだけど、勉強嫌いが災いして(何せテストの前の日でもプラモデル作ってたからね)、滑り止めに受けた私立の男子校だけ受かる。
▼音楽遍歴 中学〜高一
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◉1991年:16歳
通い始めた私立の男子校は、中高大学一貫のいわゆる坊ちゃん校で、お金持ちの子が幅を利かせる学校だった。
普通科に入ったんだけど、何故か、入学直後の実力テストで、数学の点が96点で、一年生1,000人中4位だった。数学の先生から、なんでおまえ理数系に行かなかったんだ?と言われたけど、もし、理数科行ってたら、また違う人生だったのかもなぁ。
しかし、その後はやはり勉強に身が入らず、成績はどんどん落ちていく。
サッカー部はというと、僕が一年生の時の三年生は、市大会ベスト4にまで勝ち進んだのに、一つ上の先輩達は、練習試合を含めても一勝もできない弱小チーム。
女生徒もおらず、出会う為には、お金を出してコンパに行かなきゃならない。
親父は、サラリーマンとしては、そこそこ収入があった方だと思うけど、家族6人だし、時代はまだバブリーな頃。自分で事業やって儲かってる家の子たちは、金持ちレベルが全然違う。
今にして思えば、金持ち加減を比較する必要もなかったのだけど、朱に交われば赤くなるで、お金のないことを気にして暮らしてた。高校に入学してしばらくは、中学校の時のクラスメイトに連絡して同窓会と称してよく遊んでたな。
かと言ってバイトするでもなし、サッカーもだらだら、学校に行ってもつまらない。泣かず飛ばずで、半年後には完全に腐ってたね。
この頃から、別の私立高校に通っていた中学生2年生の時に一緒だった同級生と、週末の度に飲みに出歩るく様になる。
そういうゆるい時代だったんだね。朝方に家に戻ることもしょっちゅう。
この悪友というのが、在日韓国人で、親父は不動産屋、大叔父なる人が、名古屋の二大ヤクザの一角のトップとかで、当然?こいつもとんでもな奴だったけど、なんか気が合った。
もともと中学2年生の時のクラスメイトなんだけど、ちょっと変わった奴だったんで、一部の男子と女子から無視されてたらしい。
である日、別のクラスメイトが、「あいつ(僕の後の悪友)無視されているみたいだけど、あいつのことは嫌いか?」と聞いてきたので、僕は無視されていることも知らなかったし、嫌いでもないと答えて、2人で話しかけに行った。
どうも、その時のことを恩義に感じてくれていたみたいで、僕が高校に入って腐ってた時に声をかけてくれて、飲みに誘ってくれて、僕はバイトしてなかったし小遣いも少なかったから、飲み代も全部出してくれた。
で、その悪友がある日、突然こんなことを聞いてきた。
「一緒にアメリカに留学しないか?」と。
僕は、勉強大嫌いだったし、小学生の頃から親父の通っていた英会話の教室にも何故か通わされていたんだけど、英語も全く興味なかったんだけど、悪友の次の一言に耳が反応した。
「留学して、帰国子女枠で受ければ、上智、青山は当たり前、ちょっと頑張れば、慶応、早稲田も入れるらしいよ」、と。
(うん?慶応って言った?)
別に慶応大学にどうしても入りたいという気持ちがあったわけではないが、実は、うちは親父も2人の爺さんも慶応卒。
だからといって「慶応に入れ」なんてことは、親父も両祖父も誰一人言わなかった(そもそも期待されてなかった?)んだけど、勉強嫌いなくせに、そういうところだけ、妙にプライドというか、見栄張りたがるところが当時はあって、学校生活はつまらなかったし、慶応の言葉に釣られて、2秒で留学を決意。
母親に話すと、二つ返事で「言ってこい」と。まあ、勉強もサッカーにも打ち込まず飲んだくれてる息子を見て、このまま日本の高校に通っても、なんの見込みもないと思ってくれたのでしょう。
父は最後まで、ぐずぐず言ってたけど、ちょうどその頃、親父と僕が通っていた英会話教室の先生(アメリカ人)が、故郷のヴァーモント州に戻って留学生の世話をする仕事を始めるというタイミングだったので、その人のところだったらOKと、しぶしぶだが承諾してくれた。親父からすると、自分の力が及ばない外国に一人息子を行かせることは、複雑な思いがあったと思う。この時は、普段は大人しい母親の方が思いきりが良かったね。
まあ、中学生の時にアメリカに旅行してたから、全く知らない土地というわけでもなかったし、中2の時に訪れた母方の伯父はまだいたし、海外生活が長かった父方の伯母も、中学の時から早く留学しろと言ってたので、それほど突拍子もない話ではなかったのかもしれない。
とにかく、日本の高校に残っていても、将来どころか、目の前の生活すら堪え難い状況だったから、若気のいたりとはいえ、留学することに怖さはなかったな。
もう、退屈な毎日にやっとおさらばできると、せいせいした気持ちで、退路を絶って、日本の高校も退学しての留学だった。
でも、勉強嫌いも変わらなかったから、最後の英語のテストは、赤点ギリギリの点だった(笑)
あと、水泳は既に小学生の頃ほど苦手意識はなくなっていたが、高校の水泳の授業の先生の教え方が上手く、1km以上泳いでも疲れない泳ぎを習得する。
▼アメリカ留学に誘ってくれた悪友と。

▼音楽遍歴 中学〜高一
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◉1992年:17歳
この年の3月に渡米。東海岸のカナダ国境近くにあるヴァーモント州。緯度は北海道北部くらいだから、冬はめっちゃ雪降って寒い。まあ、家や学校、お店などの建物の中は、セントラルヒーティングで暖かいんだけどね。
4月〜8月は、ニューポートという小さな町のESL(英語の特訓コースみたいなもの)のクラスに通う。生徒13人中、日本人が12人、韓国人1人(笑)まあ、初めての外国生活で心細さもあったので、良かったといえば良かったんだけど、アメリカに来た意味あるのかと思うほど、日本語でよく喋ってた。
サッカーが好きだとホストファミリーに告げると、地元の社会人のサッカーチームに入れてくれた。
9月になり、Rutlandというヴァーモント州第二の都市(それでも人口は二万人くらい)にある私立のカソリックの高校に通う。

アメリカの中でも雪深い北部の州は、秋、冬、春と、シーズンごとに部活が変わる(夏は3ヶ月の長期休暇)。
例えば、僕のいた学校は、秋はアメフトかサッカー、冬は、ダウヒルスキーかクロスカントリースキーもしくはバスケットボール、春は野球かテニスといった具合。
当然、僕はサッカー部を選ぶ。夏の間、社会人に混じってサッカーを練習していたので、アメリカの高校生なんかに比べてきれっきれに身体が動いたので、一人でドリブルで抜いてゴールしまくって、一躍スターに(笑)まあ、弱い高校相手の時だけですけどね。この年のサッカー部のMVPに選ばれた。
英語はまだまだ話せなかったけど、とりあえず、サッカーのお陰でチームメイトとは仲良くなった。
高校に入学した時のホストファミリーは倹約家?だったからか、練習後お腹を空かせて帰っても、ツナサンド一個とポテトチップスだけとか、とにかくあまり食べさせてもらえなかった(そのくせ、ホストブラザーは、なんで?ってくらい太っていて、バケツみたいな容器に入ったアイスクリームをバクバク食べてた)。あまり食べなかったお陰か、身体が軽かったので、サッカーでは良い動きができた気がする。





ホストファーザーはケチな印象だったけど、ハーバード卒のインテリで、今思うとケチと言うよりは堅実な人で、わりと素朴な人だったな。
一度ボストンへ彼の親戚の集まりに連れて行ってもらったんだけど、いかにもお金のかけられた瀟洒な家で、ダイニングの壁は鮮やかなオレンジで、アメリカの映画やドラマにでも出てきそうな家だった。
そこの奥さんに気に入られたのか、そっと2人で散歩に抜け出し、あまり英語は分からなかったけど、嫁の苦労の愚痴を聞かされたのを覚えている(笑)
ホストブラザーは学校にあんまり友達いないし、あまりにも質素な食事に辟易していたので、ホストファミリーを半年で変える。
二番目のホストファミリーは、ホストファーザーがドイツ系アメリカ人で建設会社の社長、ホストマザーがイタリア系アメリカ人で専業主婦。ホストマザーがイタリア系だからか、ご飯が美味しかった。また、とにかくお金持ちで、ボート遊びにも連れて行ってもらったり、結構楽しかったな。





ホストブラザーは少々嫌味な奴で、英語の発音をよくからかわれたけど、時々、パーティーに連れて行ってもらったりしたし、高校の友達と一緒にビールも飲めたのでありがたかった。
ただ、この時のホストファミリーは半年ごとに留学生を変えたいと思っていたらしく、また、サッカー部のチームメイトの中で、僕を受け入れたいというホストファミリーが現れたので、また半年でホストファミリーを変える。
ちなみに、冬はクロスカントリースキーを、春はテニスをやった。どちらも人生初で、あまり上手くはなかったけど、テニスは社会人になってから役に立ったし、クロスカントリースキーは、林の中を滑るので難しかったけど楽しかった。
◉1993年:18歳
新しいホストファミリーとの生活スタート。学校から車で(結構飛ばして)30分の所にある家。


両親は離婚して、父親と息子の2人暮らし+大型犬が一匹。
二番目のホストファミリーもかなり田舎だったが、さらに田舎で、お隣さんが数キロ先みたいなところ。
バーモント州は、広葉樹が多くて、秋になると辺り一面、黄色、オレンジ、赤の紅葉や楓で、息を飲むほどの美しい光景に包まれる。
しかも、日本みたいにむやみやたらと電線や電柱もないし、大規模送電とやらに使うとされる送電線や鉄塔もほとんどなかったし、無粋な白のガードレールもないから、どこを切り取っても、車のCMにでも使えそうな美しい景色だった。
よくよく考えると、僕にとって初めての田舎暮らしがバーモント州だったわけで。もしかしたら、この時の経験が無かったら、田舎暮らしを目指すことはなかったのかもしれない。そう考えると、ただそこにいたというだけでも、貴重な体験だったと言える。
ホストファミリーはというと、離婚した母親と娘がロスに住んでいて、一度遊びに行った。リトル東京(治安のわりと悪いスラムの地域にある)に連れて行ってもらった帰りに道に迷ったらしく、「あらやだ、今日はサブマシンガン持って来なかったわ」と、母ちゃんが冗談っぽく言ってたけど、もちろん笑う余裕はなかった。

あと、ボディボードしに海に連れて行ってもらったんだけど、沖で潮に流され、なかなか岸に辿り着けなくて怖い思いをした。以来、海系スポーツはやっていない。
男2人暮らしの家に迎えられ、食べる量が増えたせいか、身体が重くなり、高校2年生の頃の様な、サッカーフィールド上でのシャープな動きは消えていた。
しかし、(キャプテンでもなかったけど) チームの要としての役割を評価という理由で、2年連続でMVPをもらい、オール・ヴァーモント州の選考会にも参加させて貰えることになった。
..なったのだが、その道すがら、コーチの運転する車がブラックアイスに乗っかって、道路の上でぐるぐる回りながら、ガードレールに激突し、あえなくレッカー移動。選考会には参加できず、幻に終わった。
事故ではないけど、車で鹿を轢いたこともあったな。ホストブラザーの車で家に帰る途中で、突然現れた鹿を轢いてしまったのだが、幸いボンネットではなく、宙を舞ったお陰で命拾いした。轢かれた鹿には気の毒だったが、轢いてたのがオオヘラジカなら死んでただろう。
あと、事故ではないんだけど、死にたい気分というのも、なんとなく味わったこともあった。
ある日、一人で留守番を任され、誰もいない家で、外の雪を眺めていたら、シンシンと雪の降る音が聞こえた(マジで)。
なんかの本で、プロテスタントの独身男性で田舎暮らししてる奴に自殺者が多いと書いてあったのを思い出して、なんとなく分かった気がした。ま、それだけの話。
冬は、ダウンヒルスキー、春はテニスをした。今思うに、優雅な生活してたよね(笑)
この頃は、ホストブラザーと、スペイン人、メキシコ人、ドイツ人の留学生とよく遊んだ。
みんな、サッカー部とテニス部で一緒だったし、冬は一緒にスキーに行ったり、誰かが連れてきた別の高校のアメリカ人の女の子達と遊んだりもした。そのうちの一人の女の子に恋したりもした。甘酸っぱい青春の一ページだわ。
▼音楽遍歴 高二〜高三
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▼音楽遍歴 渡米してから聴き始めたヒップホップ
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◉1994年:19歳
ヴァーモントの2年間はそれなりに楽しかったが、雪にうんざりしていたので、南下することにした。
いくつか大学にアプライしたうち、東部の真ん中ら辺にある大学が、奨学金をくれるというので、そこに決めた。
奨学金をくれる理由は、サッカーの実績があったからなんだけど、小さな学校はディビジョン3というスポーツリーグに属していて、スポーツで奨学金を出して生徒を集めてはいけない、という様なルールがあったらしく、僕も名目上は、サッカーではなく学業の方で奨学金をもらっていた(これが後に幸いする)。
大学一年の年、何を血迷ったか、建築家になりたいとふと思い、物理や数学を取ることにした。英語だけの授業よりはマシだろうと思ったけれど、そんなに甘くはなかった。同時に、必須科目である英語は、シェークスピアの様な古い英語で書かれているので、ただでさえ英語の読み書きが出来ないのに、絶望的な状況に陥った。
根っからの勉強嫌いだったが、毎日図書館に行き、机に向かうことはした。でも、サッカー部の練習の後、大学のカフェテリアでたらふく食事した後は眠すぎて、しかも、読んでる本に興味もなかったから、図書館行っては居眠りしてた(笑)
勉強についていけず、大嫌いだった英語の先生から、成績を上げるか、サッカーをやめるかどっちかにしろ、なんて脅されて、結局、13年続けたサッカーをやめることに。この時はさすがに情けないやら悔しいやらで泣けたね。
一年生の時は、殆ど日本人留学生か、他の国の留学生としか話をしなかったな。
最初の寮のルームメイトと合わず、2人目はもっと合わず、居心地の良い居場所がなく、朝方、鳥の囀りが聞こえるまで眠れない日々。
しかし、ある日ふと『宇宙の大きさに比べれば、僕の悩みなどちっぽけなものだ』という考えが、どここらともなく降りてきて、吹っ切れた。
退学にまではならなかったし、留年ギリギリの成績で、サッカー部も辞めることになったけど、奨学金は名目上サッカーで出ていなかったから取り消しにならなかった。随分と悩んだ年だけど、途中で日本に帰るという選択肢は考えなかったし、結局、卒業するまでいた。
辛いことばかりでもなかった。
建築家になる為に必要と思って取ったアートの時間は結構楽しみで、それまで自分にアートの才能なんて微塵もないと思っていたので教授に褒められて嬉しかったし、結構良い成績ももらった。
また、歳上の日本人の先輩に可愛がられて、ジャズレストランに連れて行ってもらったこともあった。ジャズを聴き始めたのは、この頃がきっかけ。JAZZのCDを買おうとは思わなかったけど、お酒呑みながら聴く、生で聴くジャズの演奏に興奮した。
あと、大学の同級生のアメリカ人がやってたインストのバンド好きで、酔っ払って踊りまくりながら、ライブの最前列でいつも聴いてた(笑)
当時から大規模なコンサートは行ってみたいと思わないけど、演者との距離が近いライブは、今も変わらず好きだな。
◉1995年:20歳
もう授業の成績のことで悩みたくない、同じ轍は踏まんぞと、とにかく簡単そうな教科を選ぶことにした。そして、就職の際に潰しのきく科目ということで、経済学を専攻することに。
読みは当たり、経済学はなんとなく感覚的に言いたいことが分かったし、難しい専門用語もなかったので、相変わらずの勉強嫌いだったが、一年目に比べると成績がずいぶんとマシになった。
一年生の時にサッカー部は退部していたので、授業の後は基本的にぶらぶらしてた。そこに目をつけた?仲の良かったスリランカの留学生が声かけてきて、『おまえは、サッカーやってたから、ボール蹴れるし、足も速いから俺たちとラグビーやろうぜ』と、公式の部活ではない、お遊びラグビー同好会に誘ってくれた。
Our drinking team has a rugby problemだったけかな。そんなTシャツを自前で作る様なチームだから、ラグビーチームなのか、飲み会サークルなのか分からないほど、一緒によく飲んでた(笑)
高校2年間、大学一年生と計3年間もアメリカにいたにもかかわらず、どうもアメリカ人と一緒にいると、言語の壁が立ちはだかって気後れしてしまい、付き合いのメインは英語が母国語ではない留学生ばかりだった。
ところが、このお遊びラグビー&ドリンキング・チームは、殆ど毎日顔を合わせて、週末も一緒に呑んでたから、僕の中に自然と仲間意識が芽生えていった。


いわゆる大学公認のスポーツ部のエリート選手ではなく、アメフト崩れ、野球崩れ、バスケット崩れなどの、はみ出しものの集団みたいなところがあったから、僕みたいな外国人でも、差別なく受け入れてくれたのも大きかったと思う。
ある時一緒に呑んでたら、(普段は大人しくしてるんだけど)その日は何故か上機嫌で饒舌で、気付いたら冗談混じりに喋っていて、それをアメリカ人が大ウケして、それに気を良くして、もっと笑わせたいと思う様になり、英語を話すのが楽しくなった。この時のことは、アメリカ生活6年の中でも、すごく印象深い思い出だなぁ。
仲良かったニューヨーク市出身の黒人の女の子とお付き合いした。僕は同時、スウィーデイッシュポップと呼ばれるスウェーデンの音楽が好きで、音楽の話で盛り上がった。
すごく相性の良い女の子だったし、優しくて可愛い女の子だったけど、白人が大半の学校で、日本人と黒人のカップルということで、奇異の目で見られ、嘲笑の的になってる気がして、情けない話だけど、すぐに別れてしまった。
彼女には本当に悪いことをしてしまったなと今でも思うし、きっと周りの目なんか気にせず付き合い続けてたら楽しかっただろうな、と思うと今でも残念に思う。ま、それも経験だけどね。
2年生から一緒に生活していたルームメイトは、奇しくもスウェーデン人の留学生だった。いい奴だったし、同じ寮にいた留学生とも仲良くなって、一年間変わらず同じ寮にいた。
この年、車を買った。ベンツの280E、1985年モデル。個人から買った車で5,000ドル(1ドル=100円で、50万円)。丸め四つ目という外観に一目惚れして購入したが、寮に戻る途中で、走行距離メーターが動いていないことに気付く。まあ、大丈夫だろう、と思うことにしたが、この後、卒業までに修理費で買ったのと同じ金額を払うことになる。
ちなみに、NATOに行った米軍兵が個人輸入した車で、ベンツのくせにマニュアル車。修理代が高くついた理由は、多くのパーツをドイツから取り寄せカスタマイズしなくてはならなかった為。
結局、故障が多すぎて、あまり遠出は出来なかった。一番遠くて、ニューヨークシティの4時間かな。ポンコツだったが、非常に愛着の湧く車だった。
この年の冬休みに、スウェーデン人のルームメイト他、190cmのヨーロッパ人2人、185cmのプエルトリコ人1人、スペイン人の女の子一人、つまり僕とスペイン人の女の子以外に、大男4人を乗せ、フィラデルフィアの空港へ送った。
まず店員オーバーという時点で問題なんだけど、その日は、稀に見る大雪の降った日で、通常2時間で行ける距離のフィラデルフィア空港に3時間かかったんだけど、その後も雪は降り続け、除雪もろくにされていない道を、チェーンタイヤどころか、スタッドレスタイヤでもないノーマルタイヤで一人寂しく6時間かけて帰ることになった。一速のギアではタイヤがから回りした。5速発進したのは、後にも先にもこの時だけ。
◉1996年:21歳
寮を出て、一人暮らしすることに。スウェーデン人のルームメイトとの生活もそれなりに楽しくはあったけど、一人でのんびり過ごせる環境が欲しかった。
ダウンタウンの中心にある画材屋さんの2階。たぶん80㎡くらいはあったと思う2DK。リビングルームがあって、ダイニングキッチンとバスタブなしシャワーだけのバスルーム、寝室という間取り。快適そのもの。



この学年の終わりの夏休みは、大学に残り、キャンパスの草刈りや家具の移動といったアルバイトをしながら過ごす。
たまたま、この年、日本の大学生が、数週間サマースクールで、僕の大学にやってきた。確か男5人と、女子13人くらいだったと記憶している。
男の子達は大人しくて、あまり話さなかったけど、女の子達はノリが良くて、すぐ仲良くなって、一緒にお酒飲んだり、ドライブに行ったり、滞在期間中、毎日の様に遊びに行って最後は涙のお別れだったな。
◉1997年:22歳
経済学部専攻と決めてからは、勉強はつまらなかったけど、まあついていけないほどでなく、ラグビーでアメリカ人とも友達になり、一人暮らしで悠々自適、日本人の彼女もできた。うーん、今にして思うと、小学校6年生以来の充実した一年だったのでは、ないだろうか。

って書いてて思ったけど、もしかしたら、12年ごとのサイクルみたいなもの?36歳の時はどうだっけかな。ちなみに、今年で48歳(2023年現在)だけどさ(笑)
大学四年生といえば、就職をどこにするか考えなきゃいけない時期である。アメリカだと、インターンで働いてから就職が決まるというパターンが主流だったから、日本の就職活動とは、ちょっと違う。
とはいえ、大学を卒業したらビザも切れるから、身の振り方は考えないといけない。ということで両親に相談したら、爺さんのコネで入れそうなところをいくつかピックアップしてくれた。
当時は、母方の爺さんがまだ現役で高野連の会長をしていたので、スポーツ用品のミズノ、SSKなどの名前がまずあがった。そして、なぜか、東海銀行の名前もあがる。
高野連と東海銀行?東海銀行といえば、当時の都市銀行の一角だが、名古屋本店の地銀みたいな銀行だ。当時の東海銀行は高野連のメインバンクだったらしいが、住銀や三和といった関西の都市銀行があったのに、なぜに東海銀行だったのか、謎。
ちなみに僕の卒論のテーマは、日本版金融ビッグバン。「これからは自己責任だが、資産運用の幅がうんと広がる」なーんて、ことを当時まだ慶大教授だった竹中平蔵なんかが言ってたな。今じゃ売国奴といわれる彼も、当時は真面目な大学教授に見えたなぁ。
で、僕としては、勉強も嫌いだが、ずっとやりたくもない仕事をし続けるのも嫌だったから、資産を運用して、早期リタイアしたいなんて思っていた。
銀行なら、資産運用を学びながら、給料も貰えるじゃんって思ったわけ。で、銀行を受けることになり、あまり詳細に覚えてないけど、確かニューヨークの支店に行って、TOEICのテストを受け、その後、日本語と英語で面接を受けた。そして、東京本店で面接一回。それで、晴れて内定を頂き、入社が決まりました。
振り返ってみると、高校受験の為の勉強もろくにしなかったし、アメリカは大学受験なかったし、就職活動もほとんどしてない。これを幸運と呼ぶかどうかは人それぞれだと思うけど、自分では楽できてラッキーだったと思う。
もちろん英語が全く話せない状態で行ってるから、それなりに苦労はしてるけど、青春期を大学嫌受験勉強に捧げるとか、どこの馬の骨かも分からない人事担当者にへーこらしながら就職活動をするという様な苦行はしないですんだ。
さて、東京本店で面接をしたので、勤務地も都内だろうと思って、原宿か渋谷かな、どこかな、なんて、密かに楽しみにしていたのだが、蓋を開けてみたら、何故か静岡支店だった。
そういえば大学4年生の終わりごろ、僕の大学が有名人を招いて講演会を開催した。
僕の大学は、入るのも卒業するのもそんなに難しい大学じゃなかったし、知名度の高い大学じゃなかったけど、アメリカで10番目に創られた大学で、大学のあった町は小さいけれど、ワシントンD.C.の役人がリタイアしてから住むような町だったので、小さいながら裕福な町だった。
この年呼ばれたのは、湾岸戦争を指揮したコーリン・パウエルと、当時のP&Gの会長だった。
講演後、P&Gの会長に何故か話しかけられ、『うちの就職面接を受けないか?』と言われたが、銀行の内定が決まっているのでと丁重にお断りしたら、『どうしてだ!日本の銀行はつぶれるじゃないか!』と怒っていた。
天下のP&Gの会長直々のオファーを断り、彼が去っていった後、スウェーデン人の元ルームメイトが来て、何を話していたんだと聞かれたので、正直に答えたら、『おまえはとんでもないバカやろうだ。あいつ(P&G会長)もあいつだ、なんで俺に声かけないんだ』と、また怒られた。
そんなこと言われても、わしゃ知らん。
▼音楽遍歴 大学時代
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◉1998年:23歳
晴れて、東海銀行に入行。大学の卒業式が5月だったので、6月入行。

しかし、出社2日目に早くも事件が(笑)
店長席(支店長と副支店長が座る席)に、朝、挨拶に行くと、副支店長がろくに挨拶も返さず、こう言った。「銀行ってのは、ピラミッドがあるから、崩してくれるなよな」、と。
まあ、アメリカ帰りということで目をつけられてしまっていたのかもしれない。副支店長という立場上言わなければならなかったのだろうことも分からなくはない。
でも、そんなことは、こっちには関係のない話。この瞬間、この会社は僕のいる場所ではないと、辞めることを決意。
しかしながら、祖父のコネで入っている手前、すぐに辞めることはまずいと思い、「石の上にも三年」で、3年が過ぎたら辞めようと決意する。
当時は、金融再編まっただ中で、通常業務のほかに、金融庁に提出する資料作成もあり、毎日、朝8時出社(早い人は7時半)、夜は終電にギリギリ間に合う時間までという馬車馬の様な毎日。
今時ならブラック企業とか呼ばれる様な職場環境かもしれないけど、当時はブラック企業なんて言葉すらなかった。会社の中も外も、競争社会を勝ち残るには、努力気合根性で乗り切るしかない、そういう仕事に対する姿勢、態度が当たり前と思われていた時代。
そういえば、上司からの激詰め(げきづめ)なんて言葉もあったな。煙草の吸い殻が詰まった灰皿が飛んでくるなんて話も聞いた。今なら、パワハラで速攻でクビが飛ぶ様な話だけど、2000年前後って、まだそんな時代だったよね。
ある朝の朝礼での支店長の挨拶が記憶に残っている。「あんた達みんなね、のほほんと仕事してるけどね、公的資金を注入されたってことは、我々の会社は潰れた会社ってことだからね。もっと危機感持って仕事しなさい」。
その直後の労働組合の集まりで、普段は「俺には労組なんて関係ない」って顔してたバリバリの営業マンだった次長が、以来、一番前の席で机に齧り付くように話に耳を傾けていたのは、衝撃的な光景だった。
10年後、或いは、20年後、この会社は残っているかもしれない。しかし、自分の居場所があるかは、かなり怪しい。ということで、辞めることが100%確定した(笑)
おまけに、資産運用を学びたいと思って入ったのに、欧米の投資銀行とは違い、あくまでも担保ありきの昔ながらの金貸し屋に過ぎなかったので、ますますやる気が失せ、なんでこんな会社を選んだんだろうと、仕事がある平日は朝から晩まで憂鬱だった。
ただ、腐っても上場企業だから、給料も残業代含めてちゃんと出たし、平日は長時間労働だったけど、休みはカレンダー通りに取れたのは良かったかな。
良いことといえるかは分からないけど、銀行員ということで社会的信用力という面ではあったから、はじめましての人でも、怪しまれることなく、自分についてあれこれ説明する必要がない様なところは楽ではあったかもしれない。
あと、支店のあった静岡市呉服町は、静岡市の街の中心街だったから、買い物も、食べに行ったり、飲みに行くのも、お店がたくさんあって便利だった。
あまり知られてないことだけど、当時の銀行の初任給は安かった。役職ついたりすると、グーンと上がるシステム。とはいえ、40過ぎたら9割以上の行員は出向リストですから、生涯年収という意味では、それほど高くないのかも、と当時から思ってたから、辞めることに何の躊躇いもなかったな。
平日飲みに行くことは殆ど無かったけど、毎週金曜日になると、仲の良い上司と先輩と飲みに行って、その後、カラオケに行った。ほぼ毎週そうだったな。仲の良い上司や先輩とは、週末に近くのスーパー銭湯にもよく行った。
鹿児島出身の営業次長と静岡の魚が美味い店にも行った。ある店で、『今日はこれしか飲むものないからな』、と言われて出された芋焼酎。人生初だったが、魚料理との相性抜群で、以来、焼酎が好きになる。
静岡市は、海も近いし、山も近いから、週末レジャーにも適している場所でもあった。
東京都心の様に電車網は発達してないから、出かけるには車が無いと不便な場所。たまたま車を手放そうと考えてた親父から、中古の日産プリメーラをもらって、海に山によく出かけた。
ちなみに、運転免許は、アメリカで免許を取っていたので、国際免許を取り、日本で、20問くらいの簡単な選択式のテストと、簡単な実地試験を受けただけ。費用も、2,3千円だったと思う。だから、日本の交通法規は未だによく知らない(笑)
週末になると、融資課の上司が主に企画して、先輩方と共に、テニスしたり、ハイキングに行ったりしてた。その上司が転勤してからも、先輩達と温泉行ったり、テニスしたり、冬はスノボーしに行ったりしたな。
◉1999年:24歳
社会人2年目。相変わらず仕事はつまらないし、仕事がらみの勉強も手につかず。週5日という時間を犠牲にして、2日の週末をエンジョイする感じ。当然、金曜日はいつも花金、日曜日の夕方はいつも憂鬱。
アメリカでは自転車に乗るという発想がなかったけど、日本に戻って、ちょっと近所に買い物、なんて時には、やはり自転車が便利だし、サイクリングに適した道路も多かったので、マウンテンバイクを購入。
僕が高校一年の時に買ってもらったマウンテンバイク は、昔ながらのソリッドフォーク+Vブレーキってやつだったから、僕がいない間に随分と進化していて、同じ値段で前後サスペンション+デスクブレーキが帰る様になっていたのには感動した。この時、マウンテンバイクのダウンヒルってスポーツがあることを知り、興味を持つ。
マウンテンバイクだけでなく、空前の自転車ブームだったみたいで、街の本屋には、自転車雑誌が何種類も並んでいた。そのうちの一冊を毎月買い続けるうち、ダウンヒルというものが、どんなものか知り、どうしてもやりたくなって自転車屋へ。
安いものでも30万円という価格だったが、どうしてもやりたかったので、ローンで買った。同時に、ヘルメットと各種プロテクター、専用のグローブとシューズも購入。買った自転車屋主催のマウンテンバイク・ダウンヒルツアーに参加して、ダウンヒルデビュー。
夏場のスキー場を上から駆け降りるというそのスピード感、一度転べば大怪我というハラハラドキドキ感でアドレナリン大放出。完全にハマってしまい、スキー場の他、近場の山道や富士山の登山道も走る様になる。
また、たまたまその年にマウンテンバイク・ダウンヒルのワールドカップが新潟県新井市で開催され、車で6時間くらいかけて現地へ赴き、ホテルが取れなかったので車中泊して一夜を過ごす。若いなぁ(笑)
とにかく、世界最高峰のライディングに感動しっぱなしで、デジカメも持ってなかったが、ひたすらカメラをライダー達に向けて写真を撮りまくった。仕事では決して見せなかった集中力(笑)
あと、この年一番の衝撃だったのは、映画館で観たマトリックス(MATRIX)。
当時、住宅ローンの担当と中小零細企業を担当していたんだけど、担当先の一社が映画館を経営していて、訪問する度にチケットをくれた(よく考えたら、これ賄賂だよね)。
その頂いた”ただチケット”で、たぶん数十本は映画観たんじゃないかと思うけど、その中で一番印象に残っているのが、マトリックス(Matrix)
恐らく、あの映画を観た男子の8割以上は経験あると思うけど、あの映画観終わって外に出ると、自分が主人公のネオになった気分になっているという経験(笑)
とにかく当時の映画の中ではダントツに衝撃的な内容(深いところまでは分からなかったが)だったし、後の僕の考え方にも多大な影響を与えた映画。
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やっていて楽しいと思えることを動画にしました。良かったら覗いてみてください。仲間募集中(笑)
▼ブッシュクラフトやウッドクラフトや川遊びなど、自然の中で遊ぶ
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▼菜食中心の食生活をしています。日頃の食事を美味しくする為の工夫を発信・共有していきたいです。
