生い立ち0〜12歳 1975-1987

生まれてから、半世紀が経とうとしている。

いつ魂の衣を脱いでも後悔はないが、なかなかその時が訪れる気配もなし。自分の人生の最期を決めるのは自分(の魂)らしいが、まだまだ、やりたいことがあるのかな?

これから、目指す生き方は決まっている。

電気ガス水道、通信、車、お金などの「無ければ生きていけないもの」と思い込まされてきた社会インフラを手放し、自然の恵みだけで、毎日自由に生きていくこと。そこに気の合うパートナーや仲間がいれば、言うことなし。

そんなライフスタイルがいつ完成するのか、それまで生きているのかも分からない。しかし、目指す方向さえ明確なら、少なくとも、その方向へは進んでいける。

半世紀近く生きてきたわけだけど、思い返すと、アップダウンの激しい人生だった。

とにかく何事においても我慢が嫌いで、嫌になったらすぐやめる。

一方、好きになったら、とことんやる。でも、ストレスを感じるほどにはやらない。ストレスが限界に近づくと、趣味でも仕事でも、周りと争うことなく、そっと離れていたな。

僕にとって、新たな人生のステージの入口にあって(2023年現在)、一度、自分の半生を振り返ってみようと思う。

数十年前のかなり昔のことも書くので記憶が曖昧だったり、記憶違いのことも多々あるかと思う。

また、約半世紀の人生を振り返り文字にすることは、膨大な情報量となり、それを端折って端折って書くのだが、後で思い出して追記するかもしれない。それによって時系列的に話の流れがおかしくなるかもしれない。しかし、とりあえず記憶があるうちに書き残しておこうと思う。

◉1975年:0歳

東京都世田谷区の病院(なぜか自衛隊中央病院)で生まれる。生まれて3ヶ月で、世田谷にあった父の会社の社宅から、調布市の社宅に転居。もちろん、この頃の記憶はない。

◉1976年:1歳

記憶なし

▼こんな面構えの赤ん坊が生まれたら、僕ならヤベえ奴生まれたなって、思うかも(笑)

◉1977年:2歳

記憶なし

◉1978年:3歳

殆ど記憶がないが、家族で深大寺植物公園へ行って、親父に肩車して貰ったり、笹舟作って川に流した記憶だけある。

▼この頃が一番可愛かったろうなぁ(自分で言うのもなんだけど)

◉1979年:4歳

▼もうひょうきんな子になってる(笑)

この頃、突然、遊んでいて?気を失うということが一度あった。原因は不明。記憶も曖昧。病院で脳波の検査などを受けさせられた。

入院中、親父が見舞いに来て、LEGOを買ってきてくれた。この頃から、おもちゃと言えば、まずLEGOだった。

◉1980年:5歳 調布市のたちばな幼稚園に年中から通う。

この頃からだと思うが、自転車を漕いで、5歳児にしては結構遠くまで遊びに出かけたようだ。一度、心配し激怒した母に自転車をベランダに括り付けられ、自転車に乗れない様にされた記憶がある。

きっと、この頃だったと思うが、母に強制的に水泳教室に連れて行かれた。消毒液の臭いと、当時の温水プール独特な息苦しさが嫌で、毎回、泣き喚きながら抵抗したが、無理やり連れて行かれた。クラスの間ずっと泣き続けた。恐らく水泳教室側から教えるのは無理と言われたのだろう。母も途中で諦めたようで、水泳教室通いは終わったが、この時のトラウマでこれ以降、水泳の時間が嫌いになる。

◉1981年:6歳

読売ジャイアンツの王選手が好きだった。

◉1982年:7歳 東京都調布市の上野原小学校に入学。授業中にガムを噛んだり、悪友と鬼ごっこをしたりしたこともあった。今なら学級崩壊とか言われちゃうのかもだが、当時はおおらかで、先生から怒られることもなかった。東京都は田舎者の集まりだからか、クラスメイトもわりと我関せずという感じで、わりと自由な雰囲気があったな。

7月:父の転勤で、一家揃って愛知県名古屋市へ転居。9月から瑞穂区にある汐路小学校へ転校。

転校初日、東京で通った学校と違い、クラス全員が大人しく座って、36人の72個の目が全てこちらを見ていて、なんか気味が悪く感じた。

簡単な自己紹介を終えた後に、担任の先生が、クラスメイトに何か質問はないかと問うたところ、真っ先に手を挙げた男の子が一人。

僕の方を見ていた72個の目が一斉にその子を見た。イワシの大群を見ているかの様な光景だった。

「野球はどこのファンですか?」

また、イワシの大群の様な72個の目が一斉にこちらを見た。

特にどこのファンというのもなかったが、東京に住んでたし、王選手が好きだから、強いて言うなら、読売ジャイアンツだろうなぁ、と思ったが、このイワシの大群を前に、そんなことは口が裂けても言えない空気を、小学校一年生ながら読み取った。

かと言って、名古屋に引越してきて、いきなり中日ドラゴンズファンと言うのは、明らかに嘘くさい。

「ヤクルト スワローズのファンです」

とっさにそう答えた。

「なーんだ、ヤクルトかぁ。じゃあ、今日から中日ファンになりなよ」。

どうやら、答えとしては正解だったようだ。後に判明したことだが、質問した彼は、中日新聞の販売店の息子で、彼の父親も当然、大のドラきち(ドラゴンズファン)で、巨人戦で負けるとちゃぶ台をひっくり返す勢いで機嫌が悪くなるのだとか。

小学一年生ながら生存本能が働き、すぐに中日ファンを宣言し、当時の応援歌は3日を待たず覚えた。名古屋弁も一週間でマスターする。

近くに遊び場がないからと、母に無理やり、近くのサッカー教室へ通わせられる。元々、野球のリトルリーグに入りたいと思っていたので、「なんだよ、足でボールを蹴るスポーツって」と、週一回1時間のクラスも不満だった。

◉1983年:8歳

少年ジャンプのサッカー漫画、キャプテン翼が大ブレイク。同級生より半年早くサッカーを始めていたお陰で、一躍人気者に。以来、サッカーにのめり込む。

この年、交通事故に遭う。級友の誕生日会に呼ばれて、プレゼントにガンダムのプラモデルを買い、友人宅に向かう途中だった。家を出る時に、母に「今日は仏滅だから気をつけてね」と言われたのを覚えている。

加害者はなんと、巡回中の私服警官だった。怪我がないことを確認すると、自転車屋に連れて行かれ、新しい自転車を買ってくれた。つまり口止め料ね。でも、たまたまぶっかった方のペダルのすぐ後ろにぶっかったので、自分の足にはバンパーは当たらず、転んだ時の擦り傷だけですんだ。

◉1984年:9歳

自らの意思で、地元で人気のサッカークラブ(瑞穂FC)に申し込み、抽選で受かり、通い始める。

普段は友達と外で遊ぶか、友達の家でファミコンやってたな。当時流行っていたのは、ギャラガ?家ではLEGOでオリジナルの作品作って遊んでたかな。

◉1985年:10歳

小学校のサッカー部に入部。補欠だったが、左バックで試合デビューを果たした。決勝戦で、地元のライバル校の弥富小学校を一点差で破り区大会優勝。

学年が2つ上の6年生で、サッカー部のエースだった憧れの先輩(家が近所だった)の誘いを受け、昭和FCというサッカークラブにも通い始める。

この年の6年生は、市大会一回戦で敗れてしまったが、自信家で、華があるメンバーが多かった。

◉1986年:11歳 サッカー部でスタメンに。

一つ上の6年生は、前年の6年生に比べるとパッとした人がいなかった。四年生からレギュラーで、二つ上の先輩に可愛がられていた僕に対する風当たりも強かった。

サッカー部の顧問の先生は僕にとって恩師だったが、厳しい人でもあった。

とある試合、右ウイングとして出場。相手の左バックが小学生とは思えない高身長で、前半に一度スライディングタックルされ転ばされ、その後はびびって、ボールが来てもすぐにパスして逃げていた。

ハーフタイム中、監督にそのことを指摘された。

「お前ら情けねえな。そんな弱気で勝てると思うなよ。誰とは言わんけど、一度転ばされたくらいで逃げてる奴はいるしよ」

みんな誰のことか分かっていた。もちろん言われた本人が一番よく分かっていた。穴があったら入りたいと思うほど恥ずかしかった。同時にこれ以上、自分のプライドを傷つけまいという闘志が湧いてきた。

後半、回ってきたボールはひたすらドリブルし、ゴールラインぎりぎりのセンタリング以外、パスは一度もしなかった。

(これでいいんでしょ、これで)と監督の方を見ると、ニタニタしながら満足げな顔をしていた(笑)

またまた決勝戦で弥富小学校を一点差で破り区大会優勝。

◉1987年:12歳 三軍まであるサッカー部のキャプテンに選ばれる。区大会決勝は、3年連続で弥富小学校と対戦し、またまた一点差で破り区大会優勝。

前半は0-0。後半一点をリードされたが、追いつき、残り時間僅かとなって、相手のコーナーキック。入れられれば負けという局面で、コーナーキックで飛んできたボールを僕がクリアー。

みんなで繋いだボールを、最後は僕がスライディングしながらゴールに押し込み、逆転。その直後に試合終了のホイッスルが鳴るという劇的な逆転勝利だった。

▼劇的ゴールの瞬間

▼感動の涙で目の前が見えなくなるほど。

▼三大会連続で弥富小学校で決勝でぶつかり、いずれも一点差の試合を制す。良きライバルだった。

その後も、快進撃を続け、名古屋市の大会では3位の成績。

とにかくサッカーをしているのが幸せだった。朝はサッカー部の朝練、休み時間は全てサッカー、放課後にサッカーの練習、家に帰ってから暗くなるまで外でボールを蹴り、暗くなったら家でぬいぐるみのサッカーボールを蹴って遊んでいた。

好きなサッカーをしているという感覚だけで、練習が辛いとか、試合で負けて悔しいとかもなかった。この時頃得た『好きこそ物の上手なれ』という教訓は、ずっと後になって役に立つ。

サッカーは楽しかったが、学校へ行くのはわりと苦痛だった。

大嫌いだった担任が、児童会の選挙に会長として立候補しろと言ってきたので、嫌だと断ったが、誰もやりたがる奴がおらず、立候補を多数決で決められてしまった。

面倒なことは嫌いだったので、絶対に落選するだろうというふざけた演説をしたが、小学生の笑いのレベルの低さを見誤り、意に反してウケてしまう。結果、当選。

自分では意識したことなかったけど、サッカー部キャプテンってだけで、人気があったんだね。任期は半年だったが、最後までやる気がなく、児童会の顧問の先生によく嫌味を言われた。

プールの時間も辛かった。幼少期の頃のプール教室でのトラウマが残っていた。水泳のテストでは、息継ぎが出来なかったから、6mしか泳げなかった。水泳の授業が嫌いで、直前の休み時間に、みんなの前で冷たいお茶をがぶ飲みし、お腹が痛くなったといって、プールの授業をよくサボった(笑)

ある日、大嫌いだった担任が、「おまえは、児童会の会長なんだから、もっとそれらしく振る舞え」みたいなことを言ってきたので、(おまえが無理やりやらせたんだろうが)と、腹の中の怒りがおさまらなかった。

また、サッカーは強豪校とした成長していたが、野球部が弱すぎたので、この年、サッカーの夏の練習はなく、仕方なく野球部に入ることにした。

どうもサッカー部の二軍コーチで、野球部顧問をしている先生に嫌われていたようで、野球部の生徒が投げる球はガンガン打ち返していたが、そうすると「調子に乗るなよ」とばかりに、その先生が出てきて投げてくる。

やりたくもないピッチャーをやらされそうになり、フォームがどうだの面倒なことをあれこれ言われ、結局、嫌になって退部。

母方の爺さんは、野球界の殿堂入りしているが、僕は野球(をやるの)は大っ嫌いになった。守備の時、長い時間じっとさせられているのも、性に合わなかったのだと思う。夏の間は、昭和FCというクラブチームの練習に出た。

この年の、名古屋タイムズ優秀児童とやらに、汐路小学校の代表として表彰される。サッカーを楽しんでいた記憶しかないので、受賞理由がいまいちピンとこず、特段嬉しくもなかったが、何か評価されたことだけは理解した。

サッカー部キャプテン、児童会会長、名古屋タイムズ表彰。以後、30歳くらいまで自嘲気味に「僕の人生のピークは12歳」と言い続けた。

母の勧めで中学受験するも失敗。初めての挫折を経験。

▼音楽遍歴 生まれてから小学生まで

https://joumonjirounoheya.blogspot.com/2023/03/blog-post_30.html?m=1

続く

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